「迷走」的私の健康法(福岡伸一)

思えば私の人生はずいぶんと迷走している。物心ついたのは昭和のど真ん中。むろんネットも、ケータイもなかったから、おのずと関心は身近な自然に向いた。蝶や甲虫の鮮やかな色や美しいフォルム、そして幼虫、蛹、成虫というその劇的な変化に魅了された。蝶の翅を顕微鏡で観察しミクロな小宇宙に感激した。そこで今度は顕微鏡オタクとなって、その歴史を調べだした。グーグルはないので図書館に通った。その結果、顕微鏡の始祖として17世紀のオランダにレーウェンフックという物好きな人物がいたことを知った。手作り顕微鏡で、水中の微生物、血球、精子などを次々と発見した。彼はアマチュア科学者だった。アマチュアとは、アマン(=愛する人)と同じ語源。何かを一途に愛する人。私もこんな風になりたいと思って生物学の道を志すことになった。レーウェンフックは1632年、デルフトという小都市に生まれた。これがまたマジック・イヤー、マジック・プレイスだった。オタク心はこんな罠にすぐ嵌ってしまう。同じ時、同じ場所に、フェルメールが生まれていた。二人はきっと知り合いだったに違いない。フェルメールの絵は写真のように正確でいて、不思議なピントのボケがある。まるでレンズを通して世界を覗いたみたいに。ここにも蠱惑的な小宇宙が広がっていた。

フェルメールの現存作品はたった37枚。37は素数だ。これはもうコンプリートするしかない。たちまちフェルメールオタクとなって全点巡礼の旅を始めた。科学と芸術のあいだをうろうろしているうちに、私は、ネズミを解剖したり、細胞をすり潰したりするだけの日々に飽きたらなくなったのか、自分で本を書くようになった。意外なことに著書がベストセラーとなり、今では作家業が主たるなりわいになってしまった。

迷走人生ならぬ迷走神経というものがある。脳の深いところにある延髄から出発した太い神経の束が、首をおりて枝分かれしながら、体内のほとんどすべての内臓にまで達している。あまりにもいろいろな臓器へとくねくねと分布しているがゆえにこの「迷走」の名がある。迷走神経は、いわゆる自律神経のうち、副交感神経と呼ばれる情報網に属する。交感神経が、身体を覚醒させ、緊張や血圧を上昇させるアクセル役なのに対して、副交感神経はブレーキ役。迷走神経をはじめとした副交感神経が優位になると、心臓と呼吸が安静化し、胃や腸の動きがスムーズになる。免疫系も活性化される。つまり健康を保ち、身体をリラックスさせる方向に導く。私の迷走人生も、虫や顕微鏡や絵など、自分が好きなものをずっと好きであり続けた結果、多くの不思議なこと、面白いものの存在に気づかせてくれた。世界は美しい豊かさに満ちあふれている。迷走人生を心がけたことが結果的に私の健康法となったのである。