ナチス台頭を招いたワイマール共和国の「福祉政策」失敗の本質

「社会保障の危機」は日本も同じ…
根本 正一 プロフィール

完全雇用の理念が破綻、左右両極に流れる中間層

ここに大統領ヒンデンブルクが憲法48条に定められた大統領大権を以て、ブリューニングを首相に指名するという「大統領内閣」が生まれた。ヒンデンブルクは将軍として第一次大戦で活躍した国民的英雄であり、1925年から大統領に選出されていた。

帝国時代の精神を引き継ぐ80歳を超えた老大統領に共和国精神を守り抜こうとの意識は低く、議会政治終焉後はその側近たちが大統領を利用して権力を握ろうと権謀術数を繰り返す。その行き着く先が、ヒトラーの登用であった。

世界恐慌で破綻した経済を立て直そうと、ブリューニング内閣は財政再建を目標として掲げた。増税を実施する一方、年金や公務員給与の削減を断行(失業保険の拠出金比率も4.5%に引き上げる)。議会から抵抗を受ければ、大統領大権に基づいて法案を復活させ、あるいは議会解散によって封じ込める。

しかし、そうしたデフレ政策は景気をさらに冷やす効果しか持っていないことは、今日では常識である。アメリカが公共事業など財政出動によって不況を克服したニューディール政策を採って脚光を浴びたのは、それから3年後のことである。

ブリューニング内閣が財政改革法案を通すために議会解散に打って出たため、30年7月に国会選挙が実施される。ここでナチ党が歴史的な躍進を遂げる。

ナチ党は世界恐慌前の28年5月の国会選挙においては、12議席しか有していなかった。それが30年9月選挙で107議席と、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に躍進している。共産党も77議席と第3党に。その後はナチ党と共産党による街頭での騒擾行為が激しくなる。

一方で、最も凋落の激しかったのが民主党(30年に国家党と改称)である。民主党は共和制を擁護する、現代で言う最もリベラルな政党であった。自由主義的な色彩が強く、その意味で最も民主主義を体現した政党であったと言える。

共和国最初の選挙(19年)では75議席を有していたが、30年9月選挙では20議席となり、その後は一桁台にまで落ち込んでいる。

つまり、中間政党の退潮は経済的窮乏を味わった中間層が共和国の精神を離れ、過激な左右両極に流れた結果だった。

30年9月選挙でのナチの躍進は、ドイツの国際的信用を地に落としめた。そもそもドイツは相対的安定期において、生産合理化のための資本不足をアメリカなどからの資本輸入に頼っていた。

アメリカにとってはヨーロッパ経済の再建は市場確保のために望むところで、何よりも疲弊したヨーロッパ諸国がロシア革命(1917年)の影響を受けて社会主義体制に移行することを恐れた。

世界恐慌は各国にも打撃を与え、ナチの躍進とも相まって、そうした諸国が一斉にドイツから資本を引き揚げ始めた。31年夏には銀行の営業停止を招き、有力なコンツェルンの倒産をももたらした。ドイツの失業者数は32年初めには600万人を超え、経済の壊滅がブリューニング内閣の失脚へとつながる。

ブリューニング内閣退陣後、パーペン、シュライヒャーと短命内閣が続くが、その間に行われた32年7月選挙でナチ党は230議席を獲得し、第1党にのし上がる。ヒトラーに政権委譲されたのは、それから半年後のことである。

ワイマール共和国の崩壊の根底にあったのは、労働者と経営者の対立である。憲法で国民の生存圏を認め、完全雇用という理想を掲げながら、経済状況がそれを許さなくなるとその対立が表面化した。

それぞれの立場を代表する政党同士は議会において些末な闘争を繰り返し、国民全体に資する経済運営を忘れ、果ては民主主義的手続きさえ放棄してしまった。

その窮地を権威主義体制によって一気に解決してしまおうとの気持ちが、ナチ党への期待を生むこととなった。労働者はナチの大衆化に力を貸し、経済界はナチ党の政権奪取を後押しした。しかし、経済健全化に特効薬はない。

第一次大戦で失った領土を取り返し、国外への膨張政策しか道は開かれない、というナチ党の考えに国民全体が同調するようになる。

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