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ナチス台頭を招いたワイマール共和国の「福祉政策」失敗の本質

「社会保障の危機」は日本も同じ…

日本の財政赤字の最大要因は社会保障費

現在の日本で最大の課題の一つが、財政再建だ。国・地方の借金は2018年度で1100兆円。平成の始まった1989年度の4倍以上だ。国内総生産(GDP)の倍を超え、先進国でも突出している。

日本の一般会計予算は19年度に101兆円と初めて100兆円を突破したが、財源不足を補う赤字国債の発行額が25兆円に及ぶ。高齢化社会の進展に伴う年金や医療などの社会保障費の増大が、大きな要因となっている。

19年度予算における社会保障費は、平成初めの3倍の34兆円。歳出全体の3分の1を占める。社会保障費は今や、財政赤字の最大要因である。政府が消費増税に躍起となるのも、財政面からはうなずける。

現代の福祉国家では、国民はその「生存権」を保障されている。その福祉国家の先駆けとなったのが、100年前に誕生したドイツのワイマール共和国だった。そしてワイマール共和国が破綻し、最終的にナチに政権を奪取された最初の引き金は、共和国の社会保障政策の破綻によるものだった。

今回は、ワイマール共和国が破綻に至る経緯を検証しながら、福祉政策の抱える危うさを語りたい。

繁栄が一転、あえなく潰れたワイマール大連合内閣

第一次世界大戦で敗戦を喫したドイツは、共和国の設立当初から政治的な面ばかりでなく、経済的にも数々の難問を抱えていた。

英仏米ロを相手に戦ったドイツは、総力戦を完遂するために膨大な戦費調達に迫られた。それは大半が戦時公債によって賄われ、戦争に勝てばその償還は敵国に負担させればいいと踏んでいた。まさに「捕らぬ狸の皮算用」である。

しかし、敗戦によって多額の公債が未償還のまま残ることとなった。敗戦直後の1919年段階で国家債務は、開戦直前の13年の30倍近くに膨らんでいた。

この戦争の後始末にドイツ政府は不換紙幣を異常に増刷、貨幣価値が暴落しハイパー・インフレーションを生んだ。戦前と比べたインフレ率は億単位で、紙幣は紙くず同然となった。手押し車に紙幣を山ほど積んで買い物に行く写真が残っている。

おまけにヴェルサイユ条約に基づく賠償金支払いが重くのしかかる。当初、ロンドン会議(1921年)で示された賠償総額は(金の裏付けを持つ)1320億金マルク、毎年20億金マルクと輸出額の26%を支払うという過酷なもの。

もともと資源が乏しく、英仏に比べ海外植民地が少ないドイツは、戦前から経常収支の赤字を背負っていた。賠償金支払いはドイツの経済力をはるかに上回るものであり、国家財政は破綻に瀕した。

戦争で多大な損害を被ったフランスは、宿敵ドイツが二度と立ち上がれぬよう強硬姿勢を崩さない。鉄鉱石を産出するアルザス・ロレーヌを割譲させたうえ、ドイツが賠償金支払いを渋るとドイツ最大の工業地帯ルール地方を占領した(23年)から、ドイツ経済は立ち直れないほどの打撃を受けた。

こうした破綻したドイツ経済を立て直し、フランスをはじめとする戦勝国との関係改善に努めたのは、人民党党首で1920年代を通じて首相と外相を務めたグスタフ・シュトレーゼマンだった。

グスタフ・シュトレーゼマン

シュトレーゼマンは首相時代の23年秋に通貨改革を断行。土地などを担保とした新紙幣レンテンマルクを発行、1レンテンマルク=1兆旧マルクとするデノミネーションを行った。これによって、ドイツのインフレは急激に収束した。

また、外相として賠償金支払いをドイツの支払い能力を考慮したものに改める、アメリカの銀行家ドーズによる提案を引き出し(24年)、協調外交への道を開いた。さらに、近隣諸国と集団安全保障としてのロカルノ条約を締結(25年)、翌年にはドイツの国際連盟への加入が認められた。シュトレーゼマンはその功績を認められ、ノーベル平和賞を受賞している。

ここに、ワイマール共和国は相対的安定期(24~29年)を迎えた。ドイツの工業生産高は第一次大戦中にイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第2位に躍進していたが、この相対的安定期に驚異的な復興を遂げ、戦前を上回る水準に回復した。

政治的には、共和国議会は10以上に及ぶ小党分立の状態にあった。32年7月の国会選挙でナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の後塵を拝するまで、第1党の座を保っていた社会民主党も単独過半数の議席を確保することはなかった。

そのため、時の政治課題に応じて少数政党同士が合従連衡を繰り返し、様々な形での連立内閣が交代で組織された。

それでも共和国が安定した28年の国会選挙で3分の1に近い議席数を占めた社会民主党のもと、ヘルマン・ミュラー(社会民主党党首)を首班とする大連合内閣が誕生した。中央党、民主党、人民党、バイエルン人民党を加えた多数派内閣で、様々な利害の対立する各階層を糾合する形となった。

そのワイマール大連合内閣は、30年3月には総辞職を余儀なくされる。ここにおいて政党内閣は終焉を迎え、その後は大統領が首相を指名する大統領内閣へと移行する。この大統領内閣は短命内閣を続けたあと、33年1月にヒトラーにお鉢が回ってくるという経緯を辿る。ヒトラーは政権を握るとすぐに、ナチ党以外の政党を全て禁止している。

なぜ、ミュラー大連合内閣は崩壊したのか?そこには、共和国の社会保障政策の破綻があった。