「生きながらえる」ための技法

衝撃を受けた「三つの授業」
鷲田 清一 プロフィール

原初のアート

最後に、当時藝大の保健センター長の職にあった発生学者の三木の美術解剖学講義。そういえば昔、美術家の日比野克彦も藝大で断トツに面白かった授業だと言っていた。

 

その初回の授業。入ってくるなりカーテンを閉めて教室を真っ暗にした。そこに不穏な騒音が大地の唸りのように轟きはじめる。突然、前方のスクリーンに、眼と眼とがうんと離れた不気味な顔面らしきものから、鰓をもったサメのような顔、さらには両生類、爬虫類、哺乳類のような顔が次々と映しだされる。それは、ヒトの胎児が数日間で「あの一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとくに再現する」(『胎児の世界』中公新書)、その相貌の変化を記録した衝撃の画像だった。

芸術大学は実技系の大学だ。だから学びの基本に、製作と演奏の技術がある。いってみれば〈いのち〉の表現と身体使用の技。技だから大学に入ってすぐにその技術の精密な学びに入る。その矢先に、〈いのち〉と身体について、このような広がりと奥行きのある見方を突きつけられたのだから、ひどく混乱したにちがいない。
いや、芸術のように、世界をもっと別なふうに構想し、組み立てなおすという作業にこれから取り組むはずの学生にとっては、従来じぶんがもっていた感覚や判断を大きく揺さぶり、ぐらつかせる、困惑というよりむしろ陶酔の時間だったにちがいない。

八年前の東日本大震災のあと、いろんな世代のアーティストと芸術系大学の学生たちが、続々と被災地に向かった、その「やむにやまれず」という心持ちの背後には、たぶんこうしたアートの根源、もしくは再生への問いがあったのだろう。
かれらは、人びとの生活がもういちどゼロから立ち上がろうとするときに、芸術が同時にその場からしかと立ち上がるのでなければ、芸術はただの飾り物に終わると思いさだめ、被災地へと向かったはずだ。
まさに「教養」の先生方から教わったとおり、原初のアートはなによりも「生きながらえる」ための技法として起動したはずだと思いさだめて。

(わしだ・きよかず 臨床哲学・倫理学)