一度だけの授業参観
「赤ちゃんができたよ。パパはおじいちゃんになるんだよ」
ただ喜んでもらいたくてそう報告したのは、父が旅立つ2日前のことでした。
いま、わたしは一児の母です。わが子が片言を話せるようになったときも、スプーンでうまくご飯を食べられたときも、こんなに成長したのだと思う半面、父が亡くなってから同じだけの時間が経ってしまったんだと、ふと考える日々を過ごしています。
天才ラガーマン・平尾誠二氏が逝って、もう2年半になる。しかし、その存在感は失われることなく、「平尾誠二はいまも生きている」とみなが感じ、「彼ならいま、どう考えるだろう」と思いめぐらせている―。
5月24日発売の『友情2 平尾誠二を忘れない』は、平尾氏と親密な時を過ごした“15人の友”が、それぞれの想いを綴った本だ。
2017年刊の『友情 平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」』の続編だが、より多様な心の通い合いが描かれていて、そのひとつひとつが胸に迫ってくる。
先に引用したのは、平尾誠二・惠子夫妻の長女、大塚早紀さんの原稿の冒頭部分。続けて早紀さんは、自分が幼かったころの父親の姿をこう回想する。
目立つことが嫌いで、学校行事にほとんど参加しない父が、一度だけ幼稚園の授業参観に来てくれたことがあります。
そのときの写真を見ると、精一杯“普通の父親”らしいことをしてくれているのがよくわかります。
小学校のときは、出社前に、母と運動会の予行演習を見に来てくれました。本番だと人目が多いからだと思いますが、スーツ姿の父はかえって目立ってしまい、先生方はすぐに気づいて、「お父さんが来ていらっしゃいますよ」とわたしに教えてくれました。
父はたいてい遅い時刻に帰宅して、わたしや弟の部屋をのぞきにきてくれました。父がドアを開けて廊下の光がぱっと入ってくる光景が、いまでも目に焼きついています。
平尾氏はそのころ、神戸製鋼ラグビー部で日本選手権7連覇('89~'95年)、ラグビーワールドカップにも出場('87年、'91年、'95年)する一方、'97年からはラグビー日本代表監督を務めるなど多忙を極めていた。試合や練習で土日も家にいないことが多かったが、そんな日々のなかで、人として必要なことを話してくれたという。
「人を貶めるようなことをしたらあかん」
「何か起きたときには、起きたことだけを見るんじゃなく、まわりの状況も俯瞰して見るようにするとええよ」
「つらいことがあったら、そのときは苦しいかもしれない。けど、あとから考えれば、それはきみにとって必要なことなのかもしれないよ」
こうした言葉が何の抵抗もなくすっと心に届くのは、父自身がそんなふうに生きていたからだと思うのです。