譲位と院政が天皇家を維持してきた?

歴史から紐解く皇位継承の形
本郷 恵子 プロフィール

朝廷儀礼は、平安時代の儀式書に語られた姿を典型とし、その後に積み重ねられたさまざまな事例とともに継承された。これらは「先例」と呼ばれて、諸家で蓄積され、必要に応じて参照・検討された。

たとえば明治維新前夜、慶応2(1866)年の孝明天皇崩御の際にも、葬礼や代替わりの儀式を実施するにあたって、『中右記』『台記』その他の700年以上前の日記から、関連する記事が抽出され、参考とされている。

有職故実の知識は、簡単に時空を超える。院と天皇とは、時代の要請への対応と不動の永続性とを分有したといえるかもしれない。

天皇家存続のための「絞り込み」

院政を主宰する上皇は、意中の皇子を天皇位につけるだけでなく、不要な男子を出家させて俗界から排除し、子孫の絞り込みを行った。女子についても、非婚のままにとめおき、とくに寵愛の深い皇女に対しては、女院号を宣下するという形で、高い待遇を与えた。

 

家系図を思い浮かべれば、血統は末広がりに拡大していくものという印象があるが、天皇家は拡大を避け、不確定要素を排して、男子直系による直線的継承を選んだのである。

武士の家においては、家はそのまま戦闘単位となる。したがって一族は拡大路線をとらざるを得ない。戦時の国家が「産めよ殖やせよ」と号令したごとく、数は力である。

だが天皇家にはもはや数は必ずしも必要ではない。朝廷において、天皇家と貴族とのバランスは一定の成熟に達している。あるいは、中世の貴族社会は、院の権力に対抗するだけのエネルギーを持っていない。したがって天皇候補者とその同母の皇子1人程度を確保しておけば十分なのだ。

もちろん、あまり絞り込むと不測の事態に対処できない恐れがある。実際には、院の恣意や内乱の勃発により、兄弟間での継承や、血統の複線化などが生じて、厳密に直線的な血統デザインは実現されなかった。

鎌倉後期の両統迭立の状況は、その着地点といえる。もともとは後嵯峨天皇・西園寺姞子(大宮院)夫妻が、長男の後深草に続いて、次男の亀山を即位させたことから、持明院統・大覚寺統というふたつの皇統が誕生したのである。

両統の競合は、大覚寺統の後醍醐天皇による倒幕運動を経て、南北朝の対立という、天皇家にとって深刻な事態を招いたのだった。

天皇家継承のための院政

中世においては、天皇の譲位と院政が常態となっていた。天皇権威が下降する大勢のなかで、この方式を続けたことは、天皇家の持続可能性を担保するうえで、大きな意味を持ったと考えられる。

天皇の地位は「皇胤一統」と称されるごとく、血統を第1の条件としている。しかしながら世襲あるいは血統の維持には不確定な要素がつきものだ。譲位という調整可能な要素を確保しておくことは、天皇家の継承する力を格段に増す意義を持った。

ただし彼らは、後宮の管理や宮家の確保等についてはほとんど無頓着だったから、今日までの継承が全うされたのは、人為を超えた天意に助けられた部分も大きいのかもしれない。

千数百年にわたって続く、世界一古い家系について、中世史の視点から論じたのが『院政 天皇と上皇の日本史』(講談社現代新書)である。日本人の集合的無意識に沈んでいる天皇家の記憶を浮上させ、今度こそ真剣に考えるための助けとなれば幸いである。