譲位と院政が天皇家を維持してきた?

歴史から紐解く皇位継承の形
本郷 恵子 プロフィール

「退位」がもたらす国民の関心

しかしながら象徴天皇として即位された、はじめての天皇の御代替わりは、生前退位によることとなった。2016年8月にテレビで放送された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」をきっかけに議論が進み、2017年6月公布の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」によって、退位および皇位継承に関わる諸事項が定められたのである。

前近代の譲位とは異なり、手続き上、天皇の意向が発動する余地はなく、代替わりは上記の特例法に従って粛々と行われる。過去の「譲位」とは区別して、「退位」と呼ばれる所以である。

 

崩御による代替わりでは、弔事と慶事が慌ただしく同時進行するうえに、社会全体の雰囲気が沈鬱になりがちである。それに対して今回のような方式だと、感謝と慶賀のうちに、計画的に代替わりの準備を進められるという利点がある。

新元号をはじめとする、さまざまな事案について、国民としても議論をする余裕があり、意見も述べやすいと思われる。野次馬的な興味や発言も含めて、天皇制に対する関心が高まるのはよろこばしい。

皇位継承を崩御という予測の難しい事態に委ねるのではなく、退位・譲位など人為による行動によって始動させることは、天皇制を積極的に制御する姿勢に通じる。天皇制に関わる諸事象を、自己の意志によって統御したいという願いから生まれたのが「院政」という政治方式である。

院政がうまれた理由

日本中世の幕開けを担った後三条天皇(在位1068~1072)は、170年ぶりの、摂関家出身の母を持たない天皇だった。藤原道長を頂点とする摂関政治は、多くの娘を天皇家男子メンバーのもとに送り込み、生まれた男子を次期天皇に据え、その外戚として政治を掌握した。

この方式が可能だったのは、摂関家の生命力が旺盛で(構成員の寿命が長く、十分な数の子女に恵まれる。女子は天皇の息子を生み、男子はその皇子たちの後見役となる)、同時に歴代の天皇が比較的短命に終わるという条件がそろっていたからこそである。

ところが道長の息子の頼通の世代が子に恵まれなかったために、摂関政治は行き詰まる。代わって登場した後三条天皇以降、天皇は自らの意志によって後継者を定めるだけでなく、自分の眼で、息子や孫が皇位につくのを見届けることを望んだのである。

院政においては、譲位した天皇(上皇・院)が、若年の天皇に代わって政務を管掌し、天皇の後見となる。人事権を一手に握った院のもとには、権力と富が集中し、天皇家は自律的再生産が可能な経営体になったと考えられる。

院権力に主導されて、地方支配や生産の体制も再編成され、中世を貫く荘園公領制が成立する。さらに、有力貴族家や大寺社が新たな利権をめぐってせめぎあう過程で、武士が中央政界への進出を遂げた。せいぜいが陰謀事件で済んでいた政治的対立は、武力闘争・内乱へと発展することになったのである。

近代へと引き継がれた院政の文化

院政は、古代から中世へと、日本全体に大きな転換をもたらした。ただし、院が縦横に権力をふるう一方で、天皇のもとでは律令制以来の大伽藍のごとき官職体系と、煩雑な儀式と一体化した政務の手続きが維持されていた。

朝廷の管轄する官職と儀礼については、前近代を通じて日本社会の基層となった点を強調しておかなければならない。宮中儀礼や年中行事は日本人の時間感覚の枠組みとなり、朝廷が叙任する位階・官職は、江戸時代に至るまで、公武の要人たちの序列や秩序を規定した。

もちろん、これらは次第に形骸化したが、しかし決して忘れられることなく、「有職故実」という学問分野に発展した。江戸時代には国学の一部となって関心を集め、公家・武家のみならず、民間の研究者・好事家らが、広い範囲で師弟関係を結んで知的交流を行ったのである。