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# 日本史

譲位と院政が天皇家を維持してきた?

歴史から紐解く皇位継承の形

天皇の譲位が当たり前だった時代

平成の天皇の退位、新天皇の即位、令和への改元と、御代替わりをめぐるイベントが続き、天皇についての議論・天皇に対する関心が高まっている。126代の歴史の中で、天皇が生前に位を退いたのは59例と半分近くになる。

 

この行為は前近代においては「譲位」と呼ばれた。その手続きは、天皇の命令である「宣命」を発して、現天皇が新しい天皇を指名し、位を譲る意を示すというものだ。

政治的な事情で、宣命の内容と天皇の意向とがかみあっていない場合もあったにせよ、代替わりには前天皇の意志が働き、それを受けて新天皇が位を継承した。

前任者からの譲りという条件は、天皇の権威が危ういときほど、重要と考えられた。最も顕著なのは、14世紀の南北朝の動乱の時代である。後醍醐天皇の独善的な構想による建武新政が、足利尊氏によって覆されて以来、皇統は2つに分かれた。吉野に逃れた後醍醐の南朝と、室町幕府によって擁立された北朝との2つの朝廷、2人の天皇が出現したのである。

天皇の相対化ともいえる状況の中で、後発であり、後醍醐ほどファナティックでない北朝と室町幕府は苦慮した。最大の危機は、正平6(1351)年、南朝側が一時的に京都を制圧した正平一統と呼ばれる事態のあとに訪れた。

1ヵ月足らずで撤退に追い込まれた南朝軍は、北朝側の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子の直仁親王を、賀名生(現在の奈良県五條市)に連れ去ったのである。幕府側は、京都に残された弥仁親王(光厳天皇第2皇子)を擁立することにした。

だが、すべての天皇経験者が奪われた状況では、代替わりのための命令を発してくれる者がいない。権威の源泉を得ることができないのである。彼らは光厳・光明両上皇の実母で弥仁の祖母にあたる広義門院西園寺寧子に、その役割を委ねることにした。

たしかに寧子は北朝のゴッドマザーといえる位置にあるが、もちろん前例のないことで、必死の説得を重ねて何とか引き受けてもらったのである。

前近代の天皇の地位とは、このような権威付与の連鎖によって支えられていた。権威が継承されることが肝要で、権威の本当の根拠は問題にされず、漠然たる合意のみがあったといえるだろう。

近代の皇室に関する法律である「皇室典範」には譲位についての規定がなく、天皇の代替わりは、現天皇の崩御のみを契機として発生することになっていた。天皇の進退が政治利用される恐れを排除するために、あえて盛り込まれなかったのだという。この方針は、第2次世界大戦後の皇室典範においても継承された。