時代気分と乖離した「善行美談」主義が招いた新聞経営の不振

大衆は神である(52)
魚住 昭 プロフィール

正力松太郎の転身

新聞の話に戻ろう。このころの東京の、とくに下町の大衆が新聞に求めたのは、血の滴るようなセンセーショナルなニュースであり、映画や芸能や囲碁、将棋、マージャン、スポーツ、果ては性風俗にいたるまで自分たちの好奇心をそそるゴシップだった。

 

そうした時代の空気を敏感に察知して、清治の報知と真逆の新聞づくりを進めた新聞社があった。かつて警視庁の幹部だった正力松太郎(しょうりき・まつたろう)の読売新聞である。

読売は明治7(1874)年創業、明治20年代には坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴の3大文豪を擁する文学新聞として人気を呼んだ。しかし、その後、紙勢が衰え、関東大震災で、新築まもない社屋が焼ける不運も重なって経営が行き詰まった。

大正12(1923)年12月、摂政宮(皇太子裕仁。のちの昭和天皇)の車が虎ノ門に差しかかったとき山口県出身の青年・難波大助の銃で狙撃される事件が起きた。摂政宮は無事だったが、当時警視庁の警務部長だった正力は警護責任を問われ、懲戒免官になった。

翌大正13年2月、正力のもとに読売の身売り話が持ち込まれた。新聞経営に興味を持った正力は、元内相の後藤新平に10万円を用立ててもらい、読売を買収した。

正力は読売に乗り込むなり、思い切った経費節減を断行した。まず、編集の人員を半分に減らした。次いで、格安のスウェーデンの紙に注目して、富士製紙に「値引きしなければ輸入紙を使う」と交渉し、新聞用紙代を値下げさせた。旧経営陣の時代、弱小の読売が朝日や毎日より割高の用紙を買わされていたのを改めさせたのである。

経費節減は印刷にも及んだ。当時、どの新聞社も黒損(刷りはじめに汚れたり破れたりして商品にならない新聞)の量が多いのが経営上の悩みの種だった。

正力は自ら会社に泊まり込み、印刷現場を調べた。すると、原因のほとんどは作業員の不注意にあることがわかった。そこで輪転機ごとに懸賞を付け、損紙節約の競争をさせたら、黒損はたちまち減って毎月3000円が浮いた。3000円は、当時の読売の月間売り上げの5パーセントに相当した。

社内の綱紀粛正にも力を入れた。ある夜、社会部長が編集局で酒を飲んで仕事をしていたので、首筋をつかんで放り出した。大阪で会社の金を着服した営業幹部はクビにしただけでなく、告訴した。やはり不正を働いた広告部幹部は告訴され、自殺にまで追い込まれた。