時代気分と乖離した「善行美談」主義が招いた新聞経営の不振

大衆は神である(52)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

念願の報知新聞社社長の座についた野間清治。国民雑誌となった「キング」の道徳路線を踏襲し、「美しく明るく強き新聞」を目指すが、世界恐慌の波及によって疲弊し、享楽的、退廃的になった時代にはそぐわない方向性となっていた。

 

第六章 雑誌王の蹉跌──円本と報知新聞(4)

経営振るわず

清治の社長就任前、20万部台だった報知の発行部数は、清治が始めた『日曜報知』(月決め読者に配った。当初は隔週、のちに週刊)や『婦人子供報知』(月2回刊)の効果で一時急増した。が、それもあまり長続きしなかった。北太平洋横断飛行の失敗が響き、報知の紙勢は再び低迷した。

大内によると、社員に払う給料の原資が毎月のように不足した。そのたびに報知の重役が清治に無心して講談社から5万円ぐらいずつ出してもらう。清治も講談社の社員の手前、おいそれと応じるわけにいかず、いちおうしぶって見せるが、結局は「それじゃ、私が講談社の経理担当に(金を出すよう)よく言いつけておきます」と答えるのが常だった。

報知不振の原因は、北太平洋横断計画の失敗だけではなかった。清治は、社長就任挨拶で表明した「美しく明るく強き新聞」づくりを進めるため、「汚職や窃盗、強盗、失業問題などといった暗いことばかり書くな。もっと善行美談を書くように」と社内に指示を出した。

昭和初期は米国から流入したジャズ、ダンス、レビュー、カフェーなどがはやり、享楽的・退嬰的な気分が世の中を覆った、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスの時代である。

昭和5年(1930)には、ウォール街の株価暴落に端を発した世界恐慌が日本に波及し、街に失業者があふれ、労働争議や小作争議が頻発した。翌昭和6年、東北・北海道は冷害に見舞われ、山形県最上郡の一村では娘457人中50人が身売りするなど、一家離散の悲劇が相次いだ。

そんな現実の悲惨さをことさらに暴きたてるより、「善行で手本を示したほうがいい。資本家の横暴を非難するよりも、立派な資本家のやり方を書くほうが世のため人のためになる」というのが清治の考え方だった。

しかし、新聞は世のありようを映す鏡である。現実が悲惨なら、その悲惨さを伝えるのが新聞の役割だ。清治の「善行美談」主義は、新聞の生命であるニュースの意義を否定することにつながりかねなかった。報知の経済部長・野沢秀信が当時の社内の様子を語っている。

〈講談社の雑誌の記事にダイヤモンド(知名人の善行美談などを紹介する埋め草記事。小さくともキラリと光るという意味でそう呼ばれた)というのがあったでしょう。それを報知でもやるように、という社長からの伝達が社会部にも経済部にも来たわけです。

それで部会にもはかって協議したんですが、社長の至上命令だからやらなくちゃいけないけれども、若い者はどっちかというと反対だった。こういうものは面白くないし、やっても読者にピッタリこない。だから、やるにしても方法を研究しなければならないと、非常に若い者の間に議論があった。

だけれど全社的に社会面にも経済面にも学芸面にも入れろ、ということで、それが一つ入れるだけでは非常にご不満だった。そんなに入れたら新聞をぶちこわしてしまう。(略)八段か九段の面に二つか三つ入るから、編集の面で非常に困るわけです。

だけれど体裁だけでも入れようと、知名の人に接した場合の美談に類するものを社会面といわず経済面といわず取材したわけです。それがひどいときになると他の記事はほとんどなくて、そういうものばかりのようになることがある。社長は喜ばれたと思うのですけれども、新聞記者の考え方からいったら逆の行き方ですね。そのために、われわれは間に立って悩んだことがある。また、効果のほどはいま考えても疑わしい。相当工夫はしたけれども、それほど受けたかどうか疑問がありますね〉