野間清治が新聞社社長になりたかった「真の理由」と「挫折」

大衆は神である(51)
魚住 昭 プロフィール

北太平洋横断飛行の挫折

その感激と興奮がさめやらぬまま、次のプランが持ち上がった。まだ誰も成し遂げていない北太平洋横断飛行である。

翌昭和6年(1931)2月、報知新聞紙上でこの計画が発表された。吉原操縦のユンカースA50型水陸交替機で千島、カムチャツカ、アリューシャン列島、アラスカ、カナダを経てサンフランシスコに至るというのである。計画は貴族院・衆議院の協賛を得て国庫補助金1万円が支出され、民間から集まった寄付金も総額13万6500円余りに達した。

同年5月4日、吉原の「報知日米号」は大歓声に送られて東京を発った。しかし、14日、千島列島上空で濃霧の氷結のため遭難、胴体と前脚を大破した。
吉原は無事だったので、即日再挙が決まったが、「第二報知日米号」も7月5日、根室湾内で試験中に大波を受けて機体を破損し、計画は挫折した。

その直後の8月、米国のリンドバーグが島伝いの北太平洋横断に成功し、日本へ飛来した。また10月には米国のベランカ単葉機が青森から飛び立って、北太平洋無着陸横断に成功した。

いまさら引き下がれない

世界記録達成の夢は断たれたのだから、このとき報知の北太平洋横断計画は断念されるべきだったろう。だが、清治は諦めなかった。同年暮れ、当初の計画よりさらに大規模な構想の太平洋横断3大飛行計画を報知紙上で発表した。

その第一計画は、吉原が前回とは逆コースで、米国から北太平洋を横断して日本に向かう。第二計画は、海軍中佐・本間清ら3人が青森から一気に太平洋を横断してアラスカに着陸し、サンフランシスコに南下する。第三計画は陸軍大尉・名越愛徳らによるシアトル―東京間9000キロ無着陸の太平洋逆横断飛行だった。

これには社内で反対論が出た。通信部長の山下芳允らは社内会議で「やめてもらわなければいけない。うまくいかなかったら社が滅びる」と、清治に面と向かって苦言を呈した。

「社長は常にわれわれに向かって縦横考慮とおっしゃるけれども、この太平洋横断飛行については一向縦横考慮をされておらんじゃないか。たとえば(吉原機が濃霧の氷結のため)千島列島上空で前脚を折ったのはそういう研究をしていないからでしょう」

しかし、山下らの慎重論は相手にされなかった。清治はそのとき何も言わず嫌な顔をした。「小僧、何を言うか」といわんばかりだったという。

山下らの危惧は的中した。昭和7年(1932)3月、シアトル―東京無着陸飛行を目指した名越大尉はフロイド=ベネット飛行場で試験飛行中に墜落、死亡した。5月、吉原はオークランド国際飛行場で試験飛行中、エンジン故障のため不時着水して重傷を負った。残る本間中佐ら3人乗り込みの「第三報知日米号」も同じ年の9月、千島列島上空付近で行方を絶った。

〈たびたび飛行機がダメになって、そのたびごとに電報がくるでしょう。そういうのを僕が報告するわけですよ。それで僕は「横断飛行は失敗でしたね」と一度言ったことがあるんですよ。そうしたら嫌な顔をされた。というのは、社長は負けず嫌いで「俺がやったらどこまでもやるんだ」とそういう腹なんですよ。やりだしたからには途中で引き下がっては野間の面目いかんせん、という強気の男なんで、だから幾度失敗したってどんどんやったわけです。(略)ふだんは非常にソロバンをはじく人なんだけれども、そういうところにくると、ソロバンなんかそっちのけでやるというところがあった〉

社長秘書だった大内の回想である。

註① 辻平一『人間野間清治』参照