野間清治が新聞社社長になりたかった「真の理由」と「挫折」

大衆は神である(51)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

「面白くてためになる」をモットーに大正13年に創刊した国民雑誌『キング』は史上初の百万部を突破した。それ以降講談社は「世のため人のため」という「道徳』路線へと舵を切っていった。そして次のステップでは、野間清治が新聞社の社長になることに……。

 

第六章 雑誌王の蹉跌──円本と報知新聞(3)

報知新聞社長就任の懇請

満洲事変が起きる1年3ヵ月前の昭和5年(1930)6月末、清治は報知新聞社長に就任する。報知新聞は明治5年(1872)創立の伝統を誇る新聞だが、関東大震災後に、東京朝日・東京日日の大阪系2紙の攻勢を受けて経営難に陥り、紙数も激減していた。

会社再建に必要な資力と指導力を期待され、報知の社長就任要請を受けた清治はいったん断った。講談社だけでも多忙を極めているのに、これ以上、仕事を抱えたら体がもたないというのがその理由だった。しかし、内心ではやる気満々だったらしい。音羽邸詰めの秘書だった大内進が秘蔵資料のなかで当時の清治の心のうちを語っている。

〈雑誌社ではいくら成功して第一人者になっても、当時の空気では天皇陛下から観菊の御宴とか観桜の御宴の招待状はこないわけですよ。というのは、雑誌社は営利主義でやってる仕事だからというあれ(先入観念)がある。そこにいくと新聞事業は営利主義も商業主義もあるが、その大部分は天下の公器というものでしょう。営利の方が少ないわけですよ。そういう点を宮廷でもちゃんと尊重して、大新聞の社長には菊の紋の招待状が来るわけだ。社長は相当ななんの人ですから、野心家だから、自分が講談社で雑誌王といわれるようになったから、こんどは一つ、新聞王みたいにやってみようという功名心だね、名誉欲がだいぶ手伝って報知に出たと思うのです。

しかし、出るにしても、他の新聞なら出なかったと思う。大新聞の報知から是非来てくれ、と当時の社長の大隈信常(おおくま・のぶつね、大隈重信の嗣子。侯爵)氏が懇請してきたでしょう。はじめはなかなか出なかったが、結局、信常氏に懇請されて感激して承諾したわけなんだ。そういう面もあるけれども、もう一つは報知からは大臣が幾人も出ている。(前社長の)町田忠治(まちだ・ちゅうじ、農相)とかたくさんいるんですよ。それで結局、報知の社長は大臣級の人物がなるんだ。報知の社長になれば、野間清治も大臣級の人物だと思うだろうと、そういう一つの名誉欲だね〉

社長就任を要請する大隈信常の使者が帰った後、音羽邸では講談社の主だった者の会議が開かれた。

やりたくて仕方がない

元営業部長・堀江常吉によると、清治は口では「(報知は)ああいうふうに言うが、どうしたものだろう」と言いながら、やりたくて仕方がないといった風情だった。
講談社の番頭格だった赤石喜平が「社長が行けなければ、私が引き受ける」と言って、熱烈な賛成意見を述べた。そのとき左衛は嫌な顔をした。清治の体が心配だったからである。

清治がいよいよ報知に乗り出すと決めたとき、一夜、秘書の大内ら2~3人を呼んで訊いた。

「こんど自分は報知に出ることにしたが、君らはどういう考えだ」
「新聞社というものは、非常に金を食うものだと聞いていますから、はじめから相当の損をする覚悟でなくちゃいけないでしょう」

大内がそう答えると、清治は言った。

「300万円は、はじめから損をする覚悟だ」
「次に心配なのは社長の健康です」と大内。
「人間は老少不定(ろうしょうふじょう)で養生したっていつ死ぬかわからん。やりたいことをやって死ぬんなら、いつ死んでもいいんだ」
「そこまで達観しておられるのなら……報知は大臣級の人材を抱く新聞なんだから、そういうところに社長が出られるのなら、もろ手を挙げて賛成します」
「君は早稲田(大学卒)だから、やっぱりそういうことが好きなんだね」

清治は大内ら2人を社長秘書、赤石を監査役、それに帝大緑会弁論部の発起人で『雄弁』創刊メンバーだった寺田四郎(法学博士)を副社長として引きつれ、有楽町の報知本社に乗り込んだ。高級外車パッカードに同乗して、お供をしたのは大内である。