いま「くじ引き民主主義」がヨーロッパで流行中、その社会的背景

「民主主義疲れ症候群」への処方箋
吉田 徹 プロフィール

素人の衆愚政治に陥る?

もちろんくじ引き民主主義といっても、今存在している議員をクビにして、議会を民衆で埋め尽くそうというようなラディカルな提案では決してない。

『選挙制を疑う』では、カナダやオランダなどの事例が詳しく紹介されているが、現代におけるくじ引き民主主義は、規模や人口の違いもあって、古代アテネほど直裁的なものではあり得ない。

基本的には、特定の課題――とりわけ憲政上の課題や地方自治に関するような、既存の政党政治が不得手とするもの――を対象に、まず抽選で、討議をしてもらう市民を選び、その上で選挙や推薦などを経て政策を決定し、さらに議会や国民投票で公的に可決するという、幾つかのステップを踏んだ上で行うというのが具体的な提案だ。

こう考えれば、「素人をくじ引きで選んだら衆愚政治に陥るだけではないか」といった、予想される批判も的を外したものであることが解るだろう。

ヴァン・レイブルックは、一定期間、十分な情報に基づいて市民同士が意見を交換することで、政策の決定はより効率的かつ正当性を有するものになるという「熟議」が抽選制には不可欠であるとしているし、既存の代議制民主主義を補完するものであるとの条件をつけている。

先の柄谷行人も、アテネでは軍人の選出は抽選制ではなかったという事実を引いて、高度に専門的な判断ではなく、万人に関わるような課題にこそ、権力の集中を避けるためにくじ引きは用いられるべきとの留保を付けている。

 

くじ引きはすでに行われている

気づきにくくはあるが、実は身の回りを見渡せば、くじ引きは少なくない場面ですでに存在している。日本の議院規則では首相や議院議長の得票数が同数の場合はくじ引きで最終的に選ばれると定めているし、一部の教育大付属小学校の入学も抽選で行われている。

くじが「運」であるということは、それだけ平等、すなわち民主的であることを意味する哲学が背景にはあるからだ。

日本の司法では2009年から裁判員制度が導入されていることを忘れてはならない。導入が提案された当時は、素人が参加することによって死刑判決が増えるだろう、といったことが専門家の間でも仕切りに議論された。しかし裁判員制度が死刑判決数を実際に増やしたという相関関係は見当たらない。

「歴史の終わり」で知られるフランシス・フクヤマは、近刊『政治の衰退』(会田弘継訳・講談社)でこのように述べている。

政治に参加する権利を持つことで、市民は道徳的な存在であるという承認を得る。その権利を行使して、幾ばくかの作用を共同体における共同生活に及ぼす。市民は知識が足りないかもしれないし、間違った判断を下すかもしれない。それでも政治的な選択を下すという行為自体が、人間を成長させる重要な要素なのである。