いま「くじ引き民主主義」がヨーロッパで流行中、その社会的背景

「民主主義疲れ症候群」への処方箋
吉田 徹 プロフィール

かつては抽選こそが「民主的」だった

「くじ引き民主主義」は、実は民主主義という制度の根底にあるものだと言えるかもしれない。なぜだろうか。

この制度はすでに古代から存在していた。

その現場は、言うまでもなく古代アテネである。アテネでは、成人男性全員が投票権を持つ民会を持っていたことはよく知られているが、法案を提出する評議会や裁判所、さらに行政執政官も市民の抽選によっていたことは余り知られていない。かのソクラテスも評議会の議員に抽選で選ばれ、そして抽選からなる裁判員によって裁かれたのだった。

古代アテネだけでなく、抽選によって政策を主導したり、行政の監視を担ったりするということは、イタリアの都市国家にもみられた。

ヴァン・レイブルックは――フランスの哲学者マナンの説に添って――、現在のように民主主義といえば代議制民主主義を指すようになったのは、近代のフランス革命以降のことだという。

近代の民主化は、絶対王政に対抗する貴族層、そして貴族層に対抗するブルジョワ層によって進められてきた。そしてこうした貴族層やブルジョワ層が自らの支配を正当化するために生み出したのが議会制民主主義だったのだ。

こうした制度が支配的になる前には、アリストテレスが言ったように抽選制こそが民主的であって選挙は寡頭制の特徴であり、モンテスキューも抽選制こそ民主主義の本性であり、選挙は貴族制の本性だと説明していたのだ。

 

私たちは「選挙原理主義」に陥っている

民主主義といえば選挙、選挙といえば政治であるというのは、私たちの脱しがたい思考パターンになっている。

筆者の所にも、選挙が近づくと、少なくない記者からの取材申込みが舞い込んでくるが、その時、決まったように言うのは「選挙以外の時にも政治はあると思うのですが」という皮肉だ。

選挙以外にも民意の表明や政治活動は、沢山存在している。選挙結果に一喜一憂すること自体が、過去に現存した民主主義の可能性を損なうことになる。ヴァン・レイブルックのいうこの「選挙原理主義」こそが、民主主義を窮屈にしているのだ。

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もっとも、くじ引きによる政治の提唱は海外の輸入品というわけでもない。日本でも1990年代に柄谷行人が「入れ札と籤引き」というタイトルで、思考実験を試みていた。菊地寛の短編小説を題材に、彼は議会制民主主義が場合によって独裁制を呼び込む論理を指摘して、その抑制策として、古代アテネやパリ・コミューンといった歴史上の「籤引き」の経験を紹介している。

もし現在の民主主義の形が行き詰まりを見せているのであれば、別様の民主主義が模索されなければならない。それも新規なものではなく、すでに過去において、あるいは他国ですでに実践されている民主主義のあり方が。その一つの例が、くじ引き民主主義なのだ。

裏を返せば、内外からくじ引き民主主義の必要性が唱えられているということ自体、民主主義のもうひとつの可能性が模索されていることの証といえるだろう。