重度アルツハイマー病の人はどのように言葉をとりもどしたか

介護のベテランはこう関わった
右馬埜 節子 プロフィール

無反応・無言だったトモキさんに変化が……

初日、トモキさんに、

お世話係をさせていただきます

と挨拶をしたのですが、無反応。しかし、イヤそうな素振りは見られなかったので、前向きにとらえて関わることにしました。

それでも、目つきは険しく、ほとんど口を利きません。コミュニケーションは体を使ったサインのみ。こちらが声をかけて、「イエス」なら首を縦に振り、「ノー」なら首を横に振る。そして「OK」なら親指を立てる。そんなことをくり返し、ゆっくり時間をかけて、少しずつトモキさんのことを把握していきました。

たとえば、トモキさんは「了解」と思ったときには親指を立てて押しだします。そこから、

これは彼が現役のころ、ちょっと洒落た若者が使うサインだったはず。ということは、それなりにハイセンスな環境にいたのか

というふうに推測できます。

そうやって推測を重ねて、元は車関係の仕事に就いていたらしい、ということも見当がつきました。職員の情報では、トモキさんは「外車のセールスマン」だったそうですが、私が積み重ねた推理と照らし合わせると、合点がいきます。

2日目。コミュニケーションをとろうとしたのがよかったのか、この日あたりから、顔の険しさが消えはじました

3日目くらいから「おはようございます」と声をかけると、少しだけうなずくようにもなりました。

4日目あたりから、私のことを意識してくれるようになりました。おやつの時間、席に着いたら自分の横を空けて、私に「ここに座れ」とでも言いたげな視線を送ってきます。

こちらも嬉しくなり、座らせてもらいました。満足気におやつを頰張る横顔を眺めながら、彼に話しかけましたが返事はありません。でも、「おいしそうねえ」「こぼさないでね」などと声をかけ続けました。

【写真】話し続けた
  挨拶には無反応。でも、イヤそうな素振りは見られなかったので、声をかけ続けた photo by gettyimages

この老健では、食事やおやつの時間以外は何もやることがなく自由です。週に1回か2回、昼下がりにイベントがあるだけで、それ以外は自室のベッドに横たわる人が多いところでした。少数ながら、廊下を歩き回る人もいます。

あるとき、トモキさんが廊下を行ったり来たりしていました。見ていると彼は、手にしていた紙ゴミを丸めて床に捨てたのです。すかさず後ろから「トモキさん、そこに捨ててはダメでしょ、拾ってください」と声をかけると、振り向きもせずに拾い上げました。続いて「ゴミ箱に入れてください」と言うと、やっぱり振り向きません。でも、廊下の隅に置いてあるゴミ箱まで捨てに行きました。

私の言うことを聞き入れてくれたのです。

「ウソも方便」で問題を解決する

研修も半ばあたりにさしかかったある日のこと。老健の男性職員が、トモキさんを入浴させようとしていました。しかし彼は無言で拒否。職員が「ずっと入ってないんだから」などと説得にかかりますが、むしろ逆効果でだんだん顔が険しくなっていきます。

たまりかねた職員が私に、「あなたの言うことなら聞くのでは」と、声をかけてほしいと要望してきました。

顔色が変わっているときは、誰が言っても同じ。いったん退き、仕切り直したほうがいい

とは思いましたが、その職員の手前もあり一応声かけ。案の定、彼は怒って出ていってしまいました。

男性職員は「爪のなかに便が入り込んでいるのに……」とつぶやいていましたが、そこで初めて、爪の先が黒いのは便だったとわかりました。排泄はできても、きちんと拭けていなかったのです。そのあとも男性職員が入浴をうながしましたが、トモキさんは拒否の一点張り。やむなく今度は女性職員が、「せめて爪を切ろう」と言います。しかし切らせません。

そばにいた私は、指が長く形のいい彼の手を見て、

「きれいな手をしてるのね、爪もきれいにしよう」

と試しに言ってみました。もちろん、きれいなはずはありませんが、ここは「ウソも方便」でいいのです。するとトモキさん、黙って手を出します。横にいた看護師が手早く切りましたが、両手の爪を切らせるほどじっとしてはくれず、その日は片手だけ。

後日、もう一方の爪を切りましたが、そのときは、

トモキさん、こっちだけきれいで、反対の手は真っ黒って、変でしょ? はい、手を出して!

と、正面切って説得しましたが、切らせてもらえたのです。

しかし、爪切りだけ、というわけにはいきません。何とか入浴してもらいたいので、職員と申し合わせて次のように対応しました。まず私が、

私、足を洗いたいから

と、トモキさんを浴室に誘います。

すると黙ってついてきたので、今度は、

私が足を洗う間に、トモキさんはお風呂に入ってきて。私はここで待っててあげるから

と言うと、男性職員に連れられて浴室へ行きました。私が入浴することはありませんが、約束どおり、彼を更衣室で待ち、着替えと入浴後の水分補給を手伝って一件落着しました。

【写真】なんとか入浴はうまくいった
  なんとか入浴はうまくいった photo by gettyimages

こうして入浴はうまくいったのですが、困りごとは尽きません。トモキさんはときどき短気を起こします。

たとえばある午後のこと。私は利用者の居室(4人部屋)でトモキさんと話をしていました。といっても彼は聞くだけですが、そのとき、同室の人が部屋に戻ってきました。するとトモキさんが血相を変えて立ち上がり、その人に襲いかかろうとするではありませんか。思わず大声で、

いいの、私が頼んで来てもらったの

と呼びかけると、彼は握った拳を開き、また座ったのです。このとき何となく、「私を守ろうとしてくれたのかもしれない」と思いました。

またある日は、トモキさんが別の人の毛布を取り上げてしまいました。もちろん、取り上げられた人は離すまいとしますが、それを見たトモキさんが怒りだします。職員が割って入りましたが、その場を収めるのに苦労しました。

他にも、トモキさんは、隣室に入り込み、空いているベッドに横になろうとしました。そのときベッドを使っている人が戻ってきて「ここは自分の場所だ」と言います。しかしトモキさんは無言で手を挙げるばかり。トモキさんも「自分のベッドだ」と思っているようで、またもや職員は対応に追われます。

こんなことがあったので、毛布には大きな字でトモキさんの名字を書いた布片を縫い付け、部屋の入り口にも名前を大きく書いて貼ってみました。これでとりあえず、解決した感じがありました。