「今すぐ300億を…」ある証券マンが、謎の投資家から受けた挑戦

東京マネー戦記【12】2006年初夏
森 将人 プロフィール

「おい、ボケたんじゃねえか?」

反応があったのは、その直後の投資家への訪問中だった。ずっと携帯電話が鳴り続けているのは、振動から気づいていた。会議室から出た瞬間に確認すると、L銀行の営業担当者からの留守電が何本か記録されていた。

「どうしたんだ?」

折り返し電話が欲しいというメッセージを聞いて、ぼくはタクシーのなかから電話した。

「すみません。あのプライスだと、取引は全部他社に行ってしまうようなので、どうにか改善できないかと思いまして」

「なしって、あの300億の取引が一切なしなのか?」

「はい。そのようです」

 

「他社から買うんだな?」

「そうみたいです。何とかなりますか?」

「ちょっと確認してみるけど……」

「じゃあ、値段をもう一度出し直してもらえますか? それと、もうひとつだけいいですか?」

「どうした?」

「今、L銀行にいるんですけど、部長が直接話したいとおっしゃってまして。替わってもよろしいですか?」

営業担当者がいい終わらないうちに、電話口の声が変わった。訊き返さずともわかる、懐かしい声だった。

「ずいぶん、気が抜けたプライス返しやがって、ボケたんじゃねえか?」

「鳥飼さん……」

「もう一度だけチャンスをやる。悔しかったら、全力のオファーをしてみやがれ。まだ勝負は終わってねえからな」

そういうと、鳥飼は電話を切った。相手をバカにした口調で話すのは、自分の感情を隠したいからだろう。

ぼくはタクシーの運転手に、大手町に戻るように伝えた。

「大手町って、逆の方向ですけどいいんですか?」

あのオッサン、油断ならねえなあ。転職しても、何も変わっていやしねえ。ぼくは一人で笑うと、かまわないよと答えた。

渋滞で時間がかかるのは承知のうえだ。ぼくのするべきことは、その街にしかないからだった。

【「東京マネー戦記」は隔週掲載。次回は6月1日(土)公開予定です】