太平洋戦争において、米軍の反攻にあい劣勢に立たされた大日本帝国政府は、1943年9月30日、「絶対国防圏」内への戦線縮小を発表する。これは、本土防衛と戦争継続のため、千島ーマリアナ諸島ー西ニューギニアを結ぶラインの内側を死守するという構想だが、この時点で、「国防圏」の外にはまだ多くの将兵が残されていた。
彼らは、それから一切の補給を受けられず、降伏することもできず、ただ死ぬまで戦うことを強いられることになったのだ。
東京帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍陸戦隊を志願した福山孝之さんは、南太平洋のブーゲンビル島で、その渦中に身をおくことになった。
終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないまま、国から見捨てられた多くの部隊が全滅していくなかで、彼らはいかにして戦い、生き延びたのだろうか。
「おごそかに伝える。天皇陛下の命により終戦と決まった。軽挙妄動しないように。処置は追って令す」
昭和20(1945)年8月16日、すでに戦線から遥かに取り残された南太平洋、ソロモン諸島に浮かぶブーゲンビル島トリポイルの海軍第八十二警備隊本部。司令・伊藤三郎中佐の訓示を聞いて、居並ぶ士官のなかには、感極まって泣き出す者もいた。
福山孝之さん(故人)は、これまで張りつめていた全身の力が抜けていくような気がしたと言う。もう、敵の飛行機が頭上を飛んでも防空壕に走り込む必要はない。対空戦闘もしなくてよい。午後の明るい日差しのなかで、福山さんたちは数年ぶりの安堵感と解放感を噛みしめていた。
福山さんは大正7(1918)年、島根県の生まれ。幼い頃に両親を亡くし、東京・渋谷の祖父母のもとで育てられた。昭和16(1941)年12月、東京帝国大学法学部を繰り上げ卒業(本来は昭和17年3月卒業予定だった)し、「どうせ軍務に服すのなら、陸軍二等兵で入営するより、短剣を吊ったスマートな海軍士官に」と、主に陸戦隊(海軍が編成する陸上戦闘部隊)や対空、対潜、通信の初級指揮官を養成するため新設された「海軍兵科予備学生」を志願。昭和17(1942)年1月、その1期生として横須賀海兵団に入団し、千葉県の館山砲術学校で陸上戦闘指揮の猛訓練を受ける。
昭和18(1943)年1月、予備少尉に任官すると、すぐさま横須賀鎮守府第七特別陸戦隊(横七特。総員2300名)に配属され、ソロモン諸島方面の激戦場に送り込まれた。以後、コロンバンガラ島、ブーゲンビル島を渡り歩き、2年半ものあいだ、極限の戦場で苦しい戦いを続けていた。終戦時は海軍大尉で、ブーゲンビル島の日本軍拠点・ブインの北西12キロのところにあるトリポイルの対空砲台の指揮官を務めていた。
出征するとき、福山さんは、ゲーテの『ファウスト』(上・下)とイプセン『野鴨』の3冊の文庫本と日記帳だけを携えて、兵員輸送に使われた特設空母「冲鷹(ちゅうよう)」に便乗、横須賀軍港をあとにした。福山さんは、内地から最初に赴任したニューブリテン島ラバウルで、自分の部下となる人たちと最初に顔を合わせたとき、その姿に衝撃を受けたという。
「中隊長が、新任小隊長の私を紹介し、皆一斉に私に敬礼しました。しかし驚いたことに、脚はだらっと曲がったまま、銃の持ち方もバラバラで概ね猫背、目は漠然と前を見ているだけ。館山で厳しい訓練を受けてきたばかりの私は、あまりの違いに驚きました。部下となったのは、下士官1名と数名の徴兵の現役兵をのぞけば、あとは3名の下士官もふくめて応召の年配者が多く、残りは17歳以下の若い志願兵でした」
ソロモン諸島をめぐる日米両軍の攻防戦は日ごとに厳しさを増していたが、ときはガダルカナル島から日本軍が撤退した直後、精強な部隊は前線ですでに底をついていたのだ。世界屈指の悪疫の地であるソロモン諸島では、マラリアやアメーバ赤痢、熱帯性潰瘍などの風土病にかかって斃れる者が、戦死者の何倍にものぼっていた。