亀田誠治が誰よりも本気で「音楽教育」に注力するこれだけの理由

だから僕は「日比谷音楽祭」をつくった
柴 那典 プロフィール

音楽の聴かれ方・楽しみ方の「分断」

――亀田さんは、『亀田音楽専門学校』やJ-WAVEの『BEHIND THE MELODY ~FM KAMEDA』という番組で、アーティストの魅力や音楽の成り立ちを解説する役回りを精力的につとめてきました。

プロデューサーという裏方業だけでなく、ご自身が前に出て音楽文化を伝えるようになったのは、どういった経緯や思いがあったんでしょうか。

これも、ずっと僕が感じていたことが大きいですね。

僕が音楽プロデューサーとして成功したのは1998年の椎名林檎さんのデビューがきっかけだったと思います。

僕のプロデューサーとしてのキャリアはそこから2000年代に広がっていったんですが、その中でずっと感じてきたのが、音楽の聴かれ方、音楽の楽しみ方の分断でした。

――分断というと?

それは90年代から始まっていたと思います。

小室哲哉さんがいて、小林武史さんがいて、ヒット曲がたくさん生まれて、ミリオンセラーが多発して、飽和しているくらいの状況なのに、ある特定の音楽以外は「この曲は知らない」「このアーティストは苦手」という、聴かず嫌いや食わず嫌いの分断が広がっているように思っていました。

だから「なんだろう、このお祭り騒ぎは」と思っていました。

――90年代の音楽業界はとても好景気な時代だったと思いますが、そこでもどこか違和感を覚えていた。

「この時代はずっと続かないだろうな」という感触を肌で感じていました。

僕が幸運だったのは、結果的にあの渦に巻き込まれなかったこと。そして、世に出たきっかけが林檎さんという唯一無二のアーティストだったことだと思います。

そして、林檎さんには宇多田ヒカルさんという、デビューも同じ時期で、レーベルも同じ東芝EMIという比べられる対象があった。

ヒカルちゃんが天文学的な数字を叩き出して“ナンバーワン”の位置をキープしてくれたおかげで、林檎さんは“オンリーワン”でいられたんです。椎名林檎という独特の個性が、メインストリームに対してのオルタナティブと捉えられた。

椎名林檎(Mercedes-Benz Fashion Week Fall 2014にて)〔PHOTO〕gettyimages

そこから僕自身の立ち位置もより音楽的になったんですね。平井堅くんだったりスピッツだったりJUJUだったり秦基博くんだったり、いろんなタイプのアーティストからプロデュースのオファーをいただけるようになりました。

「亀田さんに頼むと売れるから」ではなく、アーティストのアイデンティティを活かしながらクオリティや作品力が上がる、そして数字につながるということでオファーが来るようになったんです。

 

――音楽プロデューサーには様々なタイプの人がいますが、亀田さんはアーティストのアイディアや音楽的な志向性を上手く引き出している印象があります。

僕はどのアーティストにもオーダーメイドでプロデュースを行っているんです。アーティストのベクトルと僕のベクトルが交わることによって、多くの人に長く聴かれることを目標にして音楽を作ってきた。

亀田誠治は「ヒットプロデューサー」と言われるけれど、それ以前に単にミュージシャンであり、いろんなアーティストと向き合って多くの打席に立っているだけなんですね。

そうやって僕が歩んで来た平成から令和に向けた20年間の中で「このジャンルに関してはわからない」とか「このアーティストは知らない」という傾向が、アーティストの側にも、それを受け止めるリスナーの側にも増幅していった。

――そこに問題意識があった。

もちろん、リスナーは自分の好きなものをチョイスして、楽しんで、自分たちの生活の中で音楽から力をもらえれば、それでいいと思うんです。でも、どこかで「もったいないな」とずっと思っていた。

こんなに素晴らしい才能がある、素晴らしいアーティストがいるのだから、これを多くの人に知らしめるためには、音楽作品を作ることだけでなく「こういうアーティストがいる」とか「こういう音楽の楽しみ方がある」ということを自分から発信していかなきゃいけないということを00年代の初頭に考えるようになりました。

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