改元の今こそ、明治維新が否定した「江戸」を再評価せよ

浮かれた空気に一石を投じる

世界が認める上質な江戸社会

「令和」という新しい時代の名称について、それが万葉集に由来することがしきりに強調され、万葉集関連書籍が一気に売れ出すという現象が起きた。実に滑稽なことである。

これを実現させた「長州型」現政権は、中国古典を典拠とせず初めて日本固有の文献に拠ったものであることを殊更アピールしたかったのである。 

ひと言水を差しておくが、文化とは、互いに影響を与え、与えられて成立するものである。中国文化の摂取なくして万葉集そのものが成立していなかったことは、余りにも初歩的な歴史認識であろう。そして、このことは勿論、恥じることでも何でもないのだ。

時代名称について目くじらを立てることは本意ではないが、かつてこれと同種のメンタリティが社会を支配し、その結果、下劣な国粋軍国主義の支配を許した歴史事実があるだけに、一抹の不安を覚えるのである。

この狂騒は、このたび文庫版として上梓させていただいた『三流の維新 一流の江戸 明治は「徳川近代」の模倣に過ぎない』 (講談社文庫)で訴えた、上質な江戸社会を全否定し、狂信的な復古主義に覆われた明治新時代早々に繰り広げられた「廃仏毀釈」という愚かなムーブメントを想起させる。

 

尊皇原理主義を掲げた明治新政府という“復古政権”は、成立するや否や一夜にして豹変し、直近の「徳川近代」が敷いた路線を走りながら、西欧近代というものを金で買いまくった。

そもそも明治新政権が、大英帝国の軍事支援を受けながら、討幕という政争に勝利するためには尊皇攘夷という単調で分かり易いキャッチフレーズを大音量で喚かないと社会を動かすムーブメントを創ることができなかったことは、明治維新というクーデターを考える時、根源的な不幸として浮かび上がってくるのだ。

開明派幕臣田辺太一が、「攘夷を唱える狂夫」という表現をしたことがあるが、復古だ、攘夷だと喚いていた尊攘過激派たちですら、少し冷静で頭の回る者はそれが単に名分に過ぎないことをある程度自覚していたはずである。目的は討幕であって、復古、攘夷はその目的を達成するための思想の装いをしたキャッチフレーズに過ぎなかったはずなのだ。

ところが、余りにも激しくこれを囃し立てている間に気分が高揚し、キャッチフレーズの域を超えてしまい、彼ら自身が錯乱してしまったとしか思えない。

復古、復古というが、では一体どこへ復古すべきだというのか。それは、律令制の時代、即ち、奈良朝あたりである。

彼らの唱える、天皇を神とする尊皇原理主義からいえばこれもおかしな話で、奈良朝にしても飛鳥朝にしても政治的にも文化的にも中国の影響なくして成立し得たはずはないのだ。

彼らは、実のところ神代の古代に復古したかったのである。このことはもはや、勤皇思想の過熱、暴走が生んだ妄想と言うべきであろう。

幕府から政権を奪って間もない明治二(1869)年七月、新政府は二官六省を設置した。二官とは、神祗官、太政官、六省とは、民部、大蔵、兵部、刑部、宮内、外務の六省をいう。

驚くことに確かに律令時代へ遡ったようではないか。さすがに神代の時代には役所は存在しなかったので、可能な限り復古したということである。そして、この名称の殆どは、昭和・平成まで使われていたことをご存知であろう。

卑しいほどの西欧崇拝に浸りながら、便法として神代への復古を標榜する明治復古政権は、政権奪取に成功するや否や、日本史の一大汚点と言うべき「廃仏毀釈」という徹底した仏教文化の破壊活動を繰り広げた。彼らは、仏教文化を日本文化とは看做さず、外来のものとして排除しようとしたのだ。

仏教伝来から既に千四百年近く経っていた維新クーデターの時点において、仏教という宗教及びその影響を受けた文化的、精神的諸要素は、既にこの美しい島国の風土を創げる主たる要素として大地に、空間に、人びとの心に沁み込んでいたことを彼らは否定したのである。

つまり廃仏毀釈とは、新政府の打ち出した思想政策によって惹き起こされた、仏教施設への無差別な、また無分別な攻撃、破壊活動であった。これによって、日本全国で奈良朝以来の夥しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗を強制されたりした。ひと言でいえば、薩摩・長州という新権力による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動であった。

私たち大和民族は、それまで千年以上に亘って「神仏習合」という形の穏やかな宗教秩序を維持してきた。平たくいえば、神社には仏様も祀って別け隔てなく敬ってきたのである。これは、極めて濃厚にアジア的多元主義を具現する習俗であったといえる。

それをいきなり廃止せよと命じ、神社から仏教的要素を徹底的に排斥することを推進し、ご神体に仏像を使用することも禁止したのである。これが、全国的に大々的な廃仏運動を燃え盛らせた。多くの現代日本人はもはや、「神仏習合」が大和的な大らかで自然な姿であったことも知らないのだ。

討幕に成功するや否や、一転して薩摩・長州が被れた西欧文明は衰退の一途をたどっているが、それは言葉を換えれば一元主義の破綻といっていいだろう。

もともと大和民族は、多元主義的な生態を維持してきたが故に、多少の混乱期を経験しながらも長期的には平穏な生存空間を、政治的な版図を超越して維持してきたのである。単に島国であったから、という地勢的な理由だけに頼るのは余りにも稚拙というものであろう。

ところが、薩摩・長州の下層階級が被れた思想とは実に浅薄なもので、単純な平田派国学を旗印に掲げ、神道国教、祭政一致を唱えたのである。これは、大和民族にとっては明白に反大和的な一元主義であろう。

明治二十三(1890)年、教育勅語が発布され、明治三十六(1903)年、教科書が国定化され、「忠君愛国」を浸透させる国史教育が始まった。これが、廃仏毀釈のゴールであった。

ダメを押すように、日露戦争後の明治三十九(1906)年、明治政府は学校から神道以外の宗教を徹底的に排除した。ここに「祭政一致」を唱え、神の祭りが政であるとする神性天皇原理主義国家が完成したのである。

これが、明治維新の産物である。