フリー編集者の小西恵美子さんは、幼いころから母がリウマチに苦しむ姿を見てきた。そして彼女自身も24歳のときにリウマチを発症。当時の医療で薬漬けになりながら治らなかった母の姿を見てきた小西さんは、「太く短く」生きる決意をし、むしろ体をいじめるように雑誌『婦人公論』リニューアルの仕事に没頭していた。

実は発症して30年経った今、小西さんは一番体調が良いのだだという。その経緯をたどり、「健康とは何か」を改めて考えさせられる本連載第3回では、「太く短く生きていた時代」に、ハードな出張ののちに逃避行した場所で感じた「気づき」についてお伝えする。

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阪神淡路大震災の取材へ

1995年1月17日に阪神淡路大震災が起きた。当時私は33歳だった。編集長に「『婦人公論』は生の声を伝えるために現地に行って取材するべきです」と訴えた。編集長はしばらく無言だった。「取材に行かせてください」と「行きなさい」が同時だった。ライターと2人で取材することになった。

大震災の発生から40日が過ぎていた。まだ被災地は交通機関が閉ざされ、代替バスが出ていたが、1時間半待ちという状態だった。私たちは大阪に宿をとり、被災地に通った。

大阪は何も変わらない日常がある。電車の窓から外を眺めていると、しだいに屋根にブルーシートが掛けてある家が多くなっていく。三宮で避難所となっている市役所に行ったが、各階のどの部屋にも避難している人でいっぱいだった。廊下にも毛布が敷かれている。下を向き、黙って座っている人に声をかけられなかった。「何と言って切り出しましょうか」と言ってはライターの目を見るだけだった。

現場に立って、360度囲まれる状態で感じるものは、テレビで観るのと大きく違った。地震で傾いたビルやバラバラに壊れた家、亀裂が入った道路を見て、その脅威に打ちのめされた。

360度こういう風景だった Photo by Getty Images

毎日、大阪の駅でお弁当を買い、リュックに入れて被災地に向かう。公園の隅でお弁当を食べていると、「寒いから温かいものを食べなさい」と炊き出しの男性が声をかけてくれる。「申し訳ありませんから、私たちはお弁当を食べます」と断っても温かいうどんをもってきてくれた。その男性に炊き出しを手伝いたいとお願いして参加させてもらう。私たちはボランティアをしながら取材することにした。

身体の辛さよりも仕事の充実が大切

取材3日目、私は38度5分の熱を出してしまった。消炎鎮痛剤を2錠飲むと午後は熱が下がり、動けそうだったので被災地に向かった。

大阪に戻って夕食をとる時間になると、足がむくみ、痛みが出てくる。食事を終えての最初の一歩が踏み出せない。やっと歩き始めると足首や膝の痛みに立ち尽くしてしまう。この痛みは気力ではどうすることもできないと身体が訴えていた。

長い廊下を足を引きずりながら歩き、部屋のドアを開け、その場に靴を脱ぐ。すり足でソファまで行って荷物を置く。すべてを放棄したい気持ちになるが、お風呂の準備をする。部屋の暖房の温度を28度にあげる。お湯が溜まるまで、ベッドに横になり、壁に足をあげて少しでもむくみをとる。

お風呂に30分ぐらい浸かっているが、いっこうに汗が出てこない。身体が温まらないのにのぼせてきた。お風呂からあがって、ボーっとテレビを観た。早く眠りにつきたいのに反対の行動をとってしまう。

明日、歩けるようにシップのモーラステープを足首から膝まで2枚並べて片足に6枚、両足で合計12枚を貼った。1日に2枚までと医者に言われたが無視した。今、楽になりたかった。疲れていたので眠れると思ったが、万が一、眠れないと翌日に響く。安定剤のデパスを飲む。

こうして7日間、身体を持ちこたえさせた。

最初は被災者に敬遠されたが、何度か会ううちに向こうから話をしてくれるようになった。火事で焼けた跡に立ち尽くす人。校舎の壁を無表情でけり続ける人。崩壊した家を片づける人。炊き出しに並ぶ人。ボランティアに励む人。子どもや年寄りの世話をする人。働きたくても仕事がない人。ここで聞いた女性の叫びを全国の人に伝えなければと使命感に燃えた。

作業は連日、深夜まで続いた。使命感に燃えているはずなのに、ショックからなのだろうか。声が出なくなった。そのストレスも疲労した身体に積み重なった。

体はつらいけれど、仕事が充実していることがなにより救いだった。

出張から戻ってからも、走りっぱなしだった。『婦人公論』は当時月2回発売されていたので、スケジュールはめちゃめちゃ。体調不良で休む人や退職する人もいて、人数は減るのにすべき仕事量は同じという過酷な状態だった。私のリウマチの痛みは強くなり、肩から背中にかけて岩盤が入っているかのように硬い。それに比例するように痛む。