『戦争を知らない子供たち』を生んだ、「いい加減」な発想

駅前の戦争と娯楽
きたやま おさむ プロフィール

そこに私は、矛盾したものを共存させる装置(つまりメルティング・ポット)を見ていたと思います。それは、恐怖が娯楽になるという仕掛けであり、人を殺す人たちが面白い娯楽を持ってきたのです。

軽い娯楽と醜い戦争

つづいて少年の頃は、短波放送に耳を傾け、世界中の放送を聴こうとし、ラジオを通して、世界の音楽を楽しむことができました。放送局に、手紙(ファンレター)を送ったりもしていたのです。あのころ、共産圏からの日本人向け放送も入ってきたので、父親は私がそれと連絡をとるのを警戒し、怒って禁止したこともありました。そして同時に、戦争においては私たち人間が殺し合いでいかに残酷になるかという話をしました。それと、戦争中も含めマスコミがいかに当てにならぬものか、という話をぶつぶつ愚痴のようにくりかえしていました。

鳥居の上空を飛ぶアメリカの飛行機(Photo by Getty Images)

アメリカ軍のFEN(極東放送網)には、戦争の凄惨さに、音楽による甘い誘惑がこめられていたので、私はそこにも矛盾した二面性を見ていました。つまり、人間や世界の光と影として、軽い娯楽と醜い戦争の混交体として感じられていました。

終戦のおかげで平和な時代がやってきて、若い夫婦は子どもをもうけることができ、私は戦争直後の受胎で、生まれてきたわけです。私にとって戦争と楽しみの混交は、人生のスタートからあったのですね。

アメリカ映画にも熱狂し、尾をひいている戦争が戦争ごっこというゲームになる仕掛けにとびつきました。『駅馬車』などのジョン・ウェインの一連の映画や、ゲーリー・クーパーの決闘などに目を見張り、同一化し興奮しました。ライフル銃やピストルで戦って死ぬことの残酷さと栄光、戦争と遊び、死ぬことと生き残ることの両面性を身近に感じ、考え込み落ち込んでもいたようです。

自分たちの歌を歌ったらどうかというメッセージ

そして大学生時代のことになりますが、激しい闘争がキャンパスに巻き起こり、理想主義は次第に悲惨なかたちを呈し、急激に泥沼化しつつありました。音楽を楽しむ私を見て、父たちは「戦争を知らないくせに、チャラチャラして、女の腐ったようなやつ」と言い、私は、「戦争を知らないからこそ、歌いたいことがある」と感じていました。相手となる父性的権力は巨大で、軟弱な私は、涙をこらえて、自分の言葉で歌うことだけが自分にできることだと思ったのです。

歌というのは、それまでは人が作った歌を歌うだけで、人に歌わされるだけのものでした。しかしフォークソングには、お前たちの歌を歌ったらどうか、というメッセージがあったと思います。それで、世代のことを父親世代へ向けて歌ったのが、『戦争を知らない子供たち』と言えましょう。有意味な戦争をしているぐらいなら、無意味に花や夕焼けの歌を歌っていたほうが絶対ましだという、じつに「いい加減」な、しかし力強い発想でした。

ギター(Photo by iStock)

終戦直後、多くの日本人が乗り降りし、通り過ぎた、「駅」という場所で、物心のついた私が遊んだことが、この曲を生んだと言えるかもしれません。広場では、傷痍軍人の悲しい軍歌と米軍の華麗なジャズがまとまりなく流れ、死んで遺骨となって帰って来る人もいれば、生きて帰って来る人もいました。瀟洒な木造の駅舎の前には、殺し合いや死と、それらが歌という遊びや娯楽になる装置の双方が展開していたのです。(『良い加減に生きる――歌いながら考える深層心理』第一幕より)

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