生きている意味なんて、
もうどうでもよくなった

弟は、Rさんとは違って、勉強が苦手なタイプだった。優秀な兄と常に比較され、常に劣等感を感じさせられていた。母親からはネグレクト気味の扱いを受けており、精神的に不安定なところもあった。成人してから心の病を発症した。錯乱状態で警察沙汰の事件も起こし、一時は施設に隔離されたこともあったが、いまは薬で症状が安定している。

「弟が心の病という診断を受けて、僕は安心しました。これでまともにケアを受けられるのですから。できないやつだとレッテルを貼られてほうっておかれていたころよりも、いまのほうが、彼は幸せだと思います。いま、彼は、彼なりに頑張って前向きに生きていますから」

現在母親は、Rさんの伯父にあたる実の弟といっしょに暮らしている。Rさんと母親は数カ月に一度会うが、いまだに話はかみ合わない。「あなたは間違っている」「私の気持ちを理解していない」「あなたもいつかわかる」とくり返すばかり。「いまでも母と話すと一時的に自信をなくすんですよ」とRさんはつぶやく。

でもRさんはいま、母親を憎んではいない。彼女には彼女の事情があったのだと思っている。

「小学生のころは、一度レールを外れたら人生が終わると思わされていました。でも、実際はそうではなかった。いまは、こんなに幸せでいいのかなと感じるくらい幸せです。何で生きているのかすらわからなかった僕が、小学生のときにふと興味をもっただけの物理の世界で、いま、ここまで来ているのが常に不思議な感覚なんです」

現在の目標は何か。

「小さくてもいいので、物理の中の新しいものを、ある程度のペースで見つけていきたいと思います」

Rさんはすでに物理学上の発見を2つほど成し遂げている。

「僕のいま研究している分野は、ほかに研究しているひとが少ないんです。だからやればやるだけ新しい発見ができます。そしていつか、何らかの形でみなさんに恩返しができればいいなと思います」

かつて飼い猫のマミコちゃんに語りかけた「なぜ生きてるんだろう?」の答えは見つかりそうか。

「物理ではその答えを出せないってことはすぐにわかりました。物理はhowの学問であって、whyに答えを出してくれる学問ではないので。でも、その問いは、僕の中でもうどうでもよくなっているんです。『意味は与えられるものではない。自分でつくればいいんだ』って、わかりましたから」

物理について生き生きと語るRさんの表情はきらきらと輝いている。一方で、その表情に、陰が見えた瞬間もあった。現在、人生を共にしようと考えているパートナーはいるが、「自分も母親と同じことをしてしまうのではないか」という怖さが拭えず、子供を授かることにはいまだに前向きになれない自分がいると語ってくれたときだ。ただしそれは、決して悪い陰ではないと私は感じた。

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闇があるからこそ、星はいっそう輝いて見える。輝きの先には、必ず陰ができる。陰に目を向けてこそ、輝きの本質に気付くことができる。いま、彼をより一層魅力的に見せているのは、回り道を経験してこその達観だ。ひととしての深みといってもいい。

どんなに回り道をしても、どんなに無為な時間を過ごしも、どこまで堕ちたとしても、人間は、その経験を自らの輝きに変えることができる。それこそが、人間の強さであり、美しさでもある。

ただし、勘違いしないでほしい。Rくんの物語から得られる教訓は、「親がどんなに子を傷つけても大丈夫」なんてのんきな話ではない。Rさんは出会いに恵まれ、それをものにすることができた、ごく一握りのサバイバーだ。「見えない牢獄」に囚われた多くの子供が、いまもどこかで声にならない叫びを上げている。おそらくそれが現実だ。

Rくんの物語から我々が学び取るべき本当の教訓は、「どんな道を歩むことになったとしても、そのひとらしくいられる限り、ひとは輝く。だとすれば親は、自分の理想を子に押しつけるのではなく、ありのままの子供を認めてあげればいい。そうすれば、子供は、まぶしいくらいに輝き始める」ではないだろうか。

「イモニイ」こと井本陽久さんは、もと教え子のRくんの存在からたくさんのことを学び、いま「奇跡の授業」を行っている 撮影/久富耕輔