それって、いじめの芽なんじゃない?

“グループ活動あるある”な残念なことあった。たとえば、よくある誘った、誘わないは、グループ活動につきものなんだと思う。しかし、私にとっては、ちょっと気になるところで……。

折に触れて思い出す忘れられない母とのやりとりがある。小学校の時、誕生日会にだれを呼ぶ?呼ばない?呼ばれた、呼ばれないといったことが“流行”った。流行に敏感になり、自分の誕生日会を前におろおろする私に、忘れもしない、母が「ばかんごた。全員、呼ばんね!」長崎弁で、「あほか!全員呼びなさい!」と、ばしっ!と言った。

強烈な思い出で、今もその時の母の表情や洋服まで細かく浮かぶ。う、うん、そうだよね!と強く思ったことも。わたしにとって重要な教訓、いや大袈裟ながら哲学になったと思う。クラスの中でコソコソと、だれを呼ぶ、とか話している空気も、正直、居心地悪い、と感じていたし。以来、何に対してかは定かではないのだが、ともかくフルオープンで行こう!と思ってきた。

あれは、小さな“いじめの芽”を母が踏みつぶした瞬間だったのかもしれない。

大人になった今も私の場合は、誘われた、誘われない云々より、その余波のコソコソに、どうしてもドン引きしてしまう。そのプレイに組み込まないで~、と。
この“引いてしまうポイント”は、人によって違うだろう。もめごとを喜びにする人はいない、という性善説に立つと、その違いは、ホンのわずかな想像力のズレだと思う。いい、悪いとか、優しさとか思いやりとか以前の、単なる想像力。こうしたら、ああなって……っていうのを、どこら辺まで想像するかの違い。

グループになるとそういうズレにより、案外かんたんに、ちっちゃな“いじめの芽”が発芽しちゃう場合が、ままある。誰も悪くなくても。

50にして実感、想像以上に時間は限られている! 

そんな頃、50歳を前にした身体の急激な変化、衰え、夜遊び体力の減退がやってきた。(くわしくは連載第1回参照)50肩で整体とか行きながら、想像していた以上に、「時間は限られている」と日々実感するようになった。

ついつい後回しにしていた家族との時間も、限られた同じ分母の上にある。いちばん大切なんだから、うかつに削ってはならぬ、削りたくない。

気力知力体力充実して本を読む時間も、好きなところへ自在に旅をする時間も、おいしいものを食べにどこまでも行く時間も、すべて等しく限られている。この時間をどう使うか?立ち止まって考えた。そうそう、わいわいもしていられないと思った。

そこで、いったん、グループ活動から距離をおいてみることにした。

寂しさを感じないわけではなかったけど、いったんちょいと疎遠になっても、もしも会いたかったら、個々に会えばいい。1対1になってみれば、これまでとはちがったつき合い方ができるかもしれない、そのほうが、より豊かな関係になるかも?と。