なぜ? 日本三大祭り「神田祭」の知られざる祭神不明の過去

それでも「祭りは!俺らの中にある!」
乃至 政彦 プロフィール

それが江戸時代後期に地誌ブームがあって、「やっぱり将門でいいのではないか」と言われるようになり、明治になると「俗習ばかりの神社は認めない。ちゃんとした由緒を示して、祭神を明らかにするように」とのお達しがあって、ようやく祭神・将門が公式化したのである。

都市伝説を生んだ福沢諭吉の筆力

いまの神田祭は5月15日に行われている。しかし、先にも触れたように、江戸時代は旧暦の9月15日に行われていた。これが明治になると新暦の9月15日からの期間に移されることになった。

すると神田祭は公式化したばかりの将門と、切り離されることになってしまった。
神田明神が〝将門は朝敵だ〟という声に配慮して、将門を主神から外したのだ。すると神田祭も行われなくなった。将門に関係ないお祭りなどする必要がないというわけである。

しかし10年ほど経つと、「将門抜きでいいから、またあの大きなお祭りをやろうじゃないか」という機運が高まった。こうして明治20年(1884)、氏子たちはかなり大掛かりな資金と人員を揃えて、祭りの準備を整えた。神田ッ子たちは「祭りは! 俺らの中にある!」と思い切ったのだろう。

しかし祭りの直前、未曾有の巨大台風が急接近した。台風は関東の「家も蔵も森も林も平等一切」あらゆるものを吹き飛ばした。このため、15日の祭りは中止となった。

福沢諭吉は『時事新報』のコラムで、この台風を「将門様の御立腹」によるものだと説いた。ただし、諭吉は大のオカルト嫌いで有名だ。本気で言ったのではなく、世俗的な読み物として口から出まかせの漫言を書いたに過ぎない。

これがなぜか、あとから真実味を帯びていき、近現代に将門怨霊伝説を増産させるに一役買うこととなった。たとえば、「将門塚を更地にしたあと、大蔵大臣が急死した」などの祟り話をご存知の方も多いだろう。

だが、この大臣は、将門塚が更地にされたときの大臣と別人である。しかもその死は「大往生」と報道されていて、死亡当時に将門の祟りとは言われていなかった。

その後、復興された将門塚を壊して駐車場にしようとする業者が作業中に事故死したという話も有名だが、例によってエビデンスのない巷説に過ぎない。つまり、将門の祟り話は根拠なき俗話ばかりなのである。

9月から5月に移った神田祭

神田明神に関係する都市伝説に、神田祭が9月から5月に移った原因を、いま述べた「将門台風」にあるとするものがある。もしこれが事実とすれば、その霊力の巨大さに戦慄させられる話である。

だが、そうではない。

15日の神田祭は休みとなったが、なんとその翌日である16日にはいつも通り再開されているのだ。また開催月が移ったというのもこの6年後のことで、原因は伝染病が流行ったことにある。つまり、神田祭が5月になった理由は、将門とまったく関係ないのだ。

その後も、将門が祟るという怪しい伝説は続々と作られていった。これについては『平将門と天慶の乱』に細かく書いた。電子書籍取扱書店のサイトに行けば、ある程度のところまで見本が読めるようになっているので、怨霊論を語りたい人はぜひ手にとってもらいたい。

もし将門の祟り話が1個でも本物なら、将門が日本最強最悪の怨霊であるように仕立てた『帝都物語』の作者である荒俣宏先生こそ、真っ先に何らかの障りがありそうなものだ。しかし、先生は今もお元気だと聞いている。

将門が東京に災いをなすというなら、神田明神のある東京が世界屈指の文明都市として繁栄しているのはどう説明できようか。将門塚のすぐ近くにある皇居も長年の平和を保っている。『平将門と天慶の乱』で怨霊譚のことごとくを否定したわたしも、発売から1ヵ月が経つのに今もってピンピンしている。これからもビンビンだろう。

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