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なぜ? 日本三大祭り「神田祭」の知られざる祭神不明の過去

それでも「祭りは!俺らの中にある!」

神田祭の起源とは?

平将門は「朝敵」「逆賊」「悪王」など散々に言われているが、地元の東国方面はもちろん、西国でもそれほど嫌われていない。それどころか彼を祭る霊場は日本中のいたるところにあって、大変な人気者である。反逆者として「天罰」がくだり、戦死したはずなのに、今や関東の守護神と化している。

都内には将門を祭る二大霊場がある。そのうち「将門塚」についてはすでに触れたので、ここでは「神田明神」に目を向けてみよう。ちょうど神田祭のシーズンなので、タイムリーでもある。

神田祭は、京都の祇園祭と大阪の天神祭に並ぶ日本三大祭りのひとつと呼ばれるお祭りだ。江戸時代には「天下祭」とも呼ばれていた。ところがそれ以前の神田祭については、よくわからないことが多い。公式情報として社伝が残されているが、その内容は確かな裏付けが取れていないのである。

すると、そこに夢やロマンは無いのであろうか。

祈りは誰に届くのか。信仰は可能なのか。その答えを将門に聞いてみたい。

デュラハンが倒れた地

神田祭の起源は明確にされていない。

徳川家康がこの地を支配していたころ、旧暦で隔年(2年に1回)の9月15日に行われていたという。この日はちょうど1600年に家康が関ヶ原合戦に勝利した日で、それに因むという声もある。しかし事実ではないだろう。神田祭は関ヶ原より前から行われていたといわれているからである。

江戸初期の記録を見ると、その起源は将門伝説にあるという。940年、下総国で討たれた平将門の死体が、むくりと起き上がった。立った死体には頭がなかった。将門の首はすでに切り取られており、京都で晒されていたのだ。

デュラハン状態の将門は、首を求めて関東を歩き始めた。歩くこと約60キロ。西に向かう途中、将門は武蔵国の江戸で力尽きた。倒れた地は当時の神田明神だった地(いまの将門塚)の付近である。

倒れた将門の胴体を見た現地の人々は、境内に祠を建てて、毎年9月15日に祭ることになったという。祟りを恐れてのことであろう。当初、その祭りは猿楽(神事能)を捧げるだけの慎ましいものだったらしい。

それから400年ほど後の1524年、この地に進出する北条氏綱(早雲の子、氏康の父)がこの地域で合戦をしたため、神田祭は1年休みになった。以降、隔年の催しになったという。

デュラハン伝説の実否は『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)に詳述した通り、すべて作り話だと言ってよい。そもそも人が胴体だけで歩けるなら、中世に〝斬首刑〟が普及するはずがない。日本はゾンビの国ではない。

祭神不明だった神田明神

江戸時代中期の史料を見ると、神田祭は将門とあまり関係なく行われていたことがわかる。なぜなら、当時の人々が「あそこの祭神は誰なのか?」と首を傾げる証言がいくつも残されているからだ。人々は「あそこは熱田大明神を祭っている」「いや、神功皇后だ」など、諸説紛々たる有様で、その起源は不明だったのである。

当時の識者である新井白石は「昔は平将門だったが、いまは牛頭天王と洲崎明神を祭っている」と言い、山崎闇斎も「素盞嗚命をお祭りしているところだ」と唱えていた。見事にバラバラである。定説がないということは、神田明神自体が公式見解を示していなかったのだろう。祭神が不明では、神田祭が何をお祭りするイベントなのかも不明だったはずである。