「面白くてためになる」から「世のため人のため」の道徳路線への転換

大衆は神である(50)
魚住 昭 プロフィール

蘇峰からの手紙

昭和3年(1928)、清治は、少年のころから憧れていた徳富猪一郎(蘇峰。国民新聞主筆)の手紙を受け取った。そこには、講談社が御大典記念7大計画の一つとして刊行した『大日本史』全17巻(水戸光圀が編纂に着手し、明治に入って完成した史書。原著は397巻)についての感想が書かれていた。

 

〈香山一別以来うたた想思を労し候(香山でお別れして以来、いよいよ思いを深めております)。さて御大典記念として「大日本史」ご刊行、まことにこれ以上の適当なるものはこれなく(略)「大日本史」は実に日本帝国の存せん限り必伝の書に候。(略)老生(=わたし)がかつて尊台(=あなた様)の事業を目して、「私設文部省」と評したる言のいよいよ的確なるをこの挙によりて証明したること快心のいたりに候〉

「私設文部省」は蘇峰の造語で、「知育」偏重の文部省になり代わり、「徳育」を担う講談社を評した言葉である。また、文中の「香山」は昭和2年9月、蘇峰の実弟・健次郎(作家の徳冨蘆花)が病没した群馬県の伊香保温泉を漢文風にいったものだ。そこで行われた蘆花記念碑の除幕式にふたりはともに参列し、顔を合わせていた。

清治は蘇峰の手紙を読んで驚喜した。社内の会議のたびに列席者一同に披露した。笛木悌治は、清治が文面を読み上げながら、子供のような純真さで喜ぶ場面を何度も目撃したという。

会議の折ばかりではない。清治は全社員に報告してその感激を分かち合い、新聞広告にも、蘇峰の手紙の全文を掲載して御大典記念7大計画の素晴らしさをアピールした。

それまで、ややもすると低俗だと批判されがちだった講談社の出版物が、皇国日本のイデオローグである蘇峰に絶賛された効果は覿面(てきめん)だったろう。清治は、このとき初めて自分が名実ともに東洋の雑誌王となったのを実感したのではないだろうか。以後、「私設文部省」と「雑誌報国」は、講談社の企業アイデンティティとなる。

外骨の痛撃

そうした講談社のあり方に自己宣伝の臆面のなさと大衆欺瞞を嗅ぎ取ったのが、反骨のジャーナリスト・宮武外骨である。宮武は『新聞報国と雑誌報国』(昭和4年)にこう書いている。註①

〈不徳富猪一郎はイツモ新聞報国と云ッて居た(略)私は親孝行者ですと云ッて自ら世間へ吹聴する奴があらうか、若しありとすれば、それは大きなニセ者、クワセ者である。低級なクダラヌ雑誌数種を拵へて、自ら東洋雑誌界の親玉と称して居る野間不清治……何で不清治かと云へば、同業者間で破廉恥漢と呼ばれ、世間一般からは出版界のヤシと貶されて居る者、(中略)其野間不清治がいつも雑誌報国と称して居る実に笑はせるよ、利欲一片の下卑蔵が国家に報復する誠意とは、説教強盗が犬をお飼ひなさい、戸締りに注意なさいと云ッた深切よりも、ズット上手の誠意であり、思想悪導者が思想善導の宣伝をしたのよりも、一層キゝ目があらう〉

註① 佐藤卓己『「キング」の時代──国民大衆雑誌の公共性』(岩波書店、二〇〇二年)p160参照。