「天皇とは何か」と聞かれたら、私たちがうまく説明できない理由

あなたを駆動する「物語」について12
赤坂 真理 プロフィール

論理ではなく「体感」

箱の中の天皇』に対して、感想をくれた友達がいた。

そこに、わたしの書きたかったことがくっきりと立ち上がっていて、感じ入ってしまった。

"「空(くう)」がこの国の「象徴」というなら、この国とはなんだろう?"

と彼女は始める。

これは、わたしが小説内でキャラクターに言わせたことだ。

象徴というのは、もともと内容が空っぽだ。

このことばがなぜ彼女に響いたかと言うと、それは彼女が舞の舞い手であるからだという。

「それはわたしの舞の道に似ていた」

と彼女は言う。

「何度も「自分のすべてを失ったかのように感じる」ことが起こっては、無いと思っていたところに「圧倒的に存在する自分」というものに気づかされる道。

すべてを失ったかのようなまっさらなところに圧倒的に存在する自分とは、日本人の自然観、あるいは宗教観の根底にあるのではないかと思った。神道でこれを説明しきれるのかはわからない。しきれないかもしれない。

ただ、客観的な記号としてはいろいろな矛盾を抱えているのに、ただ燦然と存在することができる……。論理のフェーズでは理解できないのに、体感のフェーズだと、(そういう人間の在り方は)なんの解離もなくわかってしまう」

虚にして実。

彼女の言うことは、わたしにも理解できる。

自分がなくなったところにこそ、圧倒的に大きな「自己」の体験があった、という経験を持つ人は、じつは多いだろう。

伝統的な芸能だけでなく、競技スポーツでも、自然の中にいることでも、何かに没頭したときでもいい。「無我の体験」をする人は、作為無作為を問わず、多くいるだろう。

 

さとりの一瞥のような体験でないとしても、何かに没頭して自分を忘れる、という体験をする人は日常的にいる。

そこには、自分はない。少なくとも、自分が思ってきたような自分はない。のに、大きな「自己」が感得される。

人によってはこれを、小我に対する大我の体験、と言うかもしれない。

哲学的か、宗教的と言えるような体験である。

古来、これを思い出せるように、祭りや祝祭はあったのだろうし、舞や所作は、それに入りやすい方法の体系としてあったのだろう。

それを芸能の中心にすえて伝承したという民族は、今となっては、めずらしいのではないか。少なくとも一億の規模の近代国家としては、めずらしい。

これが、天皇的自我の在り方と、きわめて近いような直観を、わたしは持っている。

しかしこれは、舞の中に感得されたように「体感」である。「所作」を通じて感得され、伝えられてゆく「なにか」である。

祭りや、田植えや、田植えから来た田楽や、神楽舞、そんな所作をもって感得するなにかであった。

それを日本人はどこかで知っているし、おぼえている。

伝承が、大宗教の中に回収されなかったという事情もあるだろう。

ただ、これは、一億をたばねるには、いかにも弱い。