誰もが知っている存在なのに…
『箱の中の天皇』という小説を、出した。
小説における前作『東京プリズン』では、昭和天皇の戦争責任について書いてみた。
今作では、今上天皇の退位と「象徴」とは何かということについて、書いてみた。
書いてみた、というのは、軽い気持ちというわけではなく、可能性をさぐってみた、ということだ。
同時に、天皇というもののことを知りたかった。
こう書いてみて、自分で不思議に思える。日本人なら存在を知らない人はいない人なのに、誰も実態をうまく言うことができない人がいるのだ。しかもその人は憲法で人権が保証されていないという。
それがどういうものなのか、どういうもので在りうるか、その可能性を知りたかった。

可能性をさぐるのに、「小説」というのは、いい方法だった。
誰もが、語ろうとすると、思考停止するか感情的になるか、という存在。至高にしてタブー。天皇を語るむずかしさはここだった。
だとしたら、それは「そういう感情反応」も込みで取り扱ってみなければ、天皇を扱ったことにはならないのではないかと思えた。みなが、感情的になるのだから。感情的にならないまでも、情緒的になるのだ。
論理と感情の、両方を同時に扱えること、異なった立場の人間を多数配置できることは、小説が表現として持つメリットだ。
至高にしてタブーであるという存在が、「国の象徴」である、とされていることは、決して健康的だとはわたしには思えない。それがわたしたちの集合的な心に、与えている影響は大きい、と思っている。落としている影と言ってもいいし、中心にあいた穴のようなもの空白、と言ってもいい。あるいは「なんとなく不問に付してしまう傾向」。
念を押しておきたいが、語りえない存在を心に持っていること自体は、人の自然なことであるとわたしは思う。
たとえば自然のすべては、語り得ない。なぜ人が生まれるか、なぜ花がさくか、なぜ、これだけたくさんの生命があって一体誰が管理しているのか、本当の意味で知っている者は、いない。それを、語りえないと認めることは、人間の謙虚さであると思う。
わたしが言いたいのは、「国」という人工的なものに対して、「ここを語れないと行き詰まったままなのに、不問のままにする」態度の、不自然な影響のことだ。
語ったところで、答えは出ないにちがいない。
答えが出ないことを問い続けることが、思考の体力を生むとわたしは思っている。
天皇というあやふやに入り組んだ存在を、語れる粘り強さが持てたなら、日本人はみずからを世界に向かって語る言葉と粘り強さを持てるだろう。