「絶対行かない」の嘘

しかし、やはりうまくはいかなかった。

ほとぼりが冷めると、また何かしらやらかしている様子。史代さんは見ないふり、気づかないふりを続けていたが、あるとき女性から元夫にあてたバースデーカードを見つけてしまった。

「親密なお付き合いをしているということがわかるようなカードでした」

見たくもないものを隠し通してさえくれない、その不誠実さも含めて心の底からいやになった。

「ああ、もう別れよう、と思いました。それで、バースデーカードだけじゃ証拠にならないから、証拠が見つかるまで待とうと思っていたら、決定的な証拠が見つかって」

その証拠をもって、史代さんは離婚を申し出た。元夫は離婚を承諾したが、条件の折り合いがつかなかった。家裁に持ち込んだところ、家庭持ちの男としてあまりいい加減であまりに酷いと調停員の同情も得て、慰謝料、養育費とも史代さんのほぼ言い値が通るかたちで離婚が決まった。

長い時間をかけて準備してきた

相場よりは高い慰謝料、養育費を得られたとはいえ、それだけで生活していけるほどの額ではない。にもかかわらず専業主婦だった史代さんが離婚を決意できたのは、仕事を得られる目算が立ったからだった。

「結婚している間、ずっと離婚が頭の片隅にあったので、もしも別れたらどうやって生きていこうか長い時間をかけて考えてきました

もともと福祉の仕事がしたいと思っていたので、下の子が8歳を過ぎたあたりで通信制の大学に入り、社会福祉を学んだ。その後、介護士の資格をとり、介護施設でパートをしたりなど、少しずつ社会との接点をつくっていった。

「パートだと、離婚して自活できるほどには稼げない。どうしようかと悶々としていたら、娘が『ママ、グジグジ悩んでいるくらいなら、大学院に入って勉強しなよ』と。そうか、専門家になろうと思い、大学院に入学しました」

離婚を申し立てたのはそのころだ。卒業後にソーシャルワーカーとして仕事に就ける可能性が見えてきたので、思い切って飛んだ。当時、上の娘が18歳で下の息子が14歳。本当は上の子が二十歳になるまで待とうと思っていたのだが、もうそこが限界だった。

「離婚が成立したときは、卒業までまだ1年あったのであえて仕事はせず、貯金を取り崩しながら生活しました。卒業後はゼミの教授の紹介で、非常勤ではありますが某研究機関に就職。ずっと専業主婦だったのでリハビリのつもりで週3日勤務から始め、徐々に仕事を増やしていきました」

フルタイムで働けるようになったのは、今年の春からだ。それでようやくなんとか家族3人の生活が成り立つだけの収入を得られるまでになった。2人の子どもは奨学金を得て大学に通っている。

「生活は楽ではありませんし、老後を考えると不安にもなりますが、自分の力で生きていくのは楽しい。仕事に慣れてきた最近は少し余裕が出てきて、50代からのアクティブライフを楽しもうという気持ちが出てきました。いま、子どもたちが巣立った後のことを考えて、熱中できる趣味を探しています」

共に暮らす手段も一生懸命探そうとし、どうしてもだめなら「自分でなんとかしよう」とやってきた史代さんなら、きっと何かを見つけるだろう。