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なぜ…?日本の二大開祖「空海と最澄」が絶縁に陥った「深刻な事情」

なんとも無慈悲な話です

最清、空海に「お前」呼ばわりされ怒る

日本天台宗の開祖、最澄と真言宗の開祖、空海。偉大なる仏教の改革者たちは、9世紀初頭、およそ10年間だけ交友を持ち、その後に絶縁している。

二人の間に何があったのか。時計の針を彼らが出会った当時に戻そう。

隣国「唐」が全盛を誇った804年。第16回遣唐使として、二人は唐に留学した。

当時、両者に直接の交流はなかった。桓武天皇に法華経の講義を行うほどのエリート僧だった最澄に対して、空海は全くの無名僧だった。

最澄(乗寺所蔵 パブリックドメイン)

風向きが変わったのは空海の帰国後、806年ごろだった。国内の皇族や貴族が、最澄が主として学んできた天台教義ではなく、空海が留学先で修行した密教に興味を示したのだ。

 

密教に造詣の深くない最澄は困り果てた。そこで、プライドを捨て、7歳下で、身分も低かった空海に「弟子入り」する。両者の交流が本格化したのはこのころからだ。

だが、最澄自身もまた、多くの弟子を抱える身。直接空海に面会し、修行することは難しかった。そこで、文字を通じて密教の心得を教わるべく、空海に何度も手紙を送る。

そんな最澄に対し、空海は「密教は体験によってのみ学ぶことができる」と冷ややかな態度を取り続ける。空海は僧としては最澄よりも「格下」。最澄は怒りをこらえ、自分の一番弟子を空海のもとに派遣し、弟子を通して密教を学ぼうとした。

空海(絹本著色弘法大師像 パブリックドメイン)

だが813年、最澄の堪忍袋の緒が切れる。きっかけは、空海の持つ密教の経典『理趣釈経』を、最澄が借りようとしたことだった。空海はこの依頼に対し、最澄を「お前」呼ばわりするなど、罵詈雑言をもって返信した。平身低頭だった最澄も、この対応には激高。以降、両者の関係は途絶える。

とはいえ、空海と最澄は816年に、もう一度だけ手紙でやり取りをしている。「預けていた一番弟子を返してほしい」と、最澄が手紙を送ったのだ。

空海の答えはもちろん「NO」。「仏心とは大慈悲これなり」とは釈迦の言だが、二人の高僧に待っていたのは、なんとも無慈悲な別れだった。(森)

『週刊現代』2019年5月25日号より