東大教授が「知っている」と「考える」、どちらが大切か教えます

<日本史のツボ>のツボ 第2回
本郷 和人 プロフィール

日本史を学ぶ時に本当に大切なこと

そうではなくて、授業では教科書に書いてある情報をもとに、「織田信長はどこが画期的か、それとも新しくないのか」とか、「明治維新を成し遂げると、太平洋戦争は必然の道だったのか否か」とかを話し合ってほしいのです。

社会や文化や政治や経済、様々な方面で「考えること」を展開していってはじめて、「日本史」という科目は「現代」を射程に捕らえることができます。「いま」学ぶに足る学問になるのです。

 

といって、日本史が魅力を失ったことを中等教育の先生方のせいにするつもりは毛頭ありません。彼らは反論するでしょう。

「そうしなければ大学入試に対応できないのです」

そう、責任はぼくたち大学教員の側にあります。そこでこの観点から大学の入試問題を検討してみると、たしかに「知ってる、知らない」を試す問題のなんと多いことか! こんなもの「クイズ」じゃないですか。

大学の入試問題は、どうあるべきでしょうか。種々の回答があり得るでしょうが、ぼくは試験は「考える」力を試すものであって、知識の多寡を量るものではないと思っています。

その意味から、現状の日本史の入試問題は、これはちょっとおかしいぞ、というものが多すぎます。このような試験しか作れぬほどに大学教員の質が低下しているとすると、入試から日本史を外すのもやむなし、文系の「考える」力を試すのは国語だけで十分ではないかとぼくは考えます。

いつまでも「考える」ために

入試についてはあとでじっくり考えますが、日本史はそれだけ「知っている」ことと「考える」ことのバランスが難しい学問といえるでしょう。

先述したように、ぼくは所謂「ヲタク」で、日本史に関する知識量をきわめて豊富に蓄えていました。そうした状況で大学の日本史研究室の門を叩きました。ところが、当てが外れたことに、大学の研究室で重んじられることは「考える」ことであって、「知っている」ことではありませんでした。

恩師の石井進先生はことあるごとに「ほらをふきなさい。広い視野で考える訓練を積みなさい」という方でした。

とりあえずの「ほら」を作り出すまでに、すなわち「まっとうな日本史の学び」を体得するまでに、ぼくは人より多くの時間を必要としました。「歴史という学問=知ってること・覚えていることの集積」という「へんなクセ」がついてしまっていて、矯正するために苦労したのです。

ぼくは最近、いくつかの本を出しているが、それらのほとんどは「考える」ことに主眼を置いたものです。ところが、なぜか「レビュー」に「この本に書いてある程度のことは、みんな知っていた」と書いてくる人がいます。

「それはちがうんじゃないかな」と思うのです。「考え」が私とは異なる、というのなら、ぼくは謙虚に耳を傾けます。でも、「知っている」ことと「考える」ことの区別が付かない人にはつきあえません。

考える力は年齢とともに減衰するそうです。そこは「知っている」ことの多様性で何とか補いながら、これからも「考える」ことを続けていきたいな、と思っています。