東大教授が「知っている」と「考える」、どちらが大切か教えます

<日本史のツボ>のツボ 第2回
本郷 和人 プロフィール

「知っていること」の再認識

ぼくは実は、多くを「知っている」ことで、研究者を名乗っている人間です。そもそもは「ヲタク」で、中学・高校のころに歴史を中心に人文系の知識をかなりため込んだ。それで知識量に関しては、これまでさほど恥ずかしい思いをしたことがありません。

 

けれども、ここが大事なのですが、研究者にとっての生命線とは、「知っている」ことではなくて、「考える」ことなのです。「ものしり」は二流。「頭が切れる」人こそが一流。その点に鑑みて、ぼくは「知っている」ことを誇らぬようにしてきました。

強烈な思い出があります。大学の3年生になり本郷キャンパスに進学し、日本中世史を本格的に学ぶことになったときのこと、です。

ぼくは石井進先生のゼミに出席することになり、初めての報告に臨みました。テーマは和歌山県の根来寺の寺内組織について。ここで根来寺関連の古文書を読んでいたぼくは、あることに気付きました。

お坊さんになってから(出家してから)3年、というのを「臈次は3年」という言い方をするのですが、この「臈次」、「ろうじ」ではなく、当時は「らっし」と読んでいたようなのです。

今でこそ辞書には「らっし」が載っていますが、当時はみな「ろうじ」だったように記憶しています。そのために、ぼくは「おお、ぼくってすげえ」と思いました。

「こんな史料、3年生で見つけられるのはぼくくらいだ!」。

でもゼミには先輩方もたくさん出席しているので、控えめに発言したのです。「この僧侶は大永2年時点で臈次25年、ええこの臈次という言葉ですが、これは当時『らっし』と読んだようですね、まあどっちでも良いですけど」。

そうしたら、石井先生は何とコメントしたか。「うん、よく調べたね」ではありませんでした。

うん、どうでもいいね

いまでも、よおっく覚えています。他のだれでもない、博覧強記でなる石井先生がおっしゃった。「そういうのは、どうでもいい」。そうか、なるほど。ぼくはこのとき、痛烈に思い知りました。研究っていうのは、ただの「ものしり」じゃあだめなんだな、と。

先達からの大切な教え

先達の教えといえば、史料編纂所の先輩で、禅宗の史料の読み方を教えて下さった今泉淑夫先生(一休宗純や世阿弥についての名著あり)の笑顔も、とても印象に残っています。

どんなシュチュエーションだったかは忘れてしまったのですが、先生は言われました。

「本郷くんね、ものしりはどこにでもいる。自分が分からないことを知っている人はいる。そういう人には礼を尽くして教えてもらえば良いんだ。知らないことは恥ずかしいことではない。知らないことをごまかすのが恥ずかしいんだよ

ああ、大人だなあ、と感じ入りました。

知らなければ、分からなければ、先ず自ら調べる。これが大切です。でも、ツールが豊富にある今と違い、昔は調べるのがたいへんだった。

たとえば若き日の海舟勝麟太郎。彼は貧乏でしたから、苦学しました。貴重なオランダ語の辞書を何とか借りることに成功したときに、彼は冒頭から全部、書写したのです。

それも2部。1部は自分用、もう1部は売って生活費を稼ぐため。江戸時代末には、辞書が手に入らなかったから。

国語辞書など、今はだれもきちんと使わないだろうけれど、自国語の辞典がある、ということは先進国である証しでした。日本は欧米と同じ時期、明治年間に国語辞書の編纂に取り組んだ経緯があります。それが有名な大槻文彦の『言海』でした。

恥ずかしいことに、ぼくは自分の恩師が五味文彦先生であるため、大槻文彦という人を昭和くらいの方だろうな、と漠然と思っていた。とんでもない。明治の人でした。大槻家は代々学者の家として有名で、文彦のお父さんは「奥羽列藩同盟」の理論的指導者だったのです。