東大教授が「知っている」と「考える」、どちらが大切か教えます

<日本史のツボ>のツボ 第2回
歴史を楽しむにあたり、そもそも歴史学とは何か、というのを考えるのが前回のテーマでした。今回はいよいよ「楽しむ」を形成する具体的な行為について考えていきます。それは、「日本史における『知っている』ことと『考える』こと」です。この2つのことはともに大切であり、密接な連関を有しているのですが、でもやはり、異なるありようを示しています。その辺りを詳しく述べていきましょう。

<日本史のツボ>のツボ 第2回では「知っている」と「考える」について、そして日本史を学ぶ上で本当に大切なことを解説します。それでは、本郷先生からクイズを1つ!

ある古文書の文言から、クイズを1つ

五条坊門東洞院太郎五郎男」読めるでしょうか?

ぼくは月に2回、東大で「古文書を読む会」を開いています。対象はどなたでも。大学の施設を利用していますので、会費はもちろん無料です。東大が推進する「学問の社会還元」のささやかな一環ですね。

 

いま素材としては、室町幕府・六代将軍、足利義教が主催した訴訟の様子を記録する『御前落居記録』を読んでいます。ちょっと難しいのですが、興味のある方は是非一度おいで下さい。

さて、先日この会に「安居頭役のこと、五条坊門東洞院太郎五郎男に差し定むるのところ」という文言が出てきました。仏事である「安居(あんご)」を行うために必要な金銭負担を「五条坊門東洞院太郎五郎男」に負担させたのだが、という意味になります。

「安居」はとりあえず調べてもらうとして、「あれ?」とぼくが首を傾げたのは、相当に古文書を読めるはずの会の固定メンバー(年輩者が多い。中世文書なら、大学院生レベルで読める)が「五条坊門東洞院太郎五郎男」に躓いてしまったのでした。

大学で体系的に日本史を学んでいると、どこのタイミングかははっきりとしませんけれども、京都の町には碁盤の目のように「東西方向の通り」と「南北の通り」があり、その二つを組み合わせることで京中の「どの当たりか」が分かるようになっている、ということを知ります。

だから「五条坊門東洞院」は、東西に走る「五条坊門通り」と南北の「東洞院通り」が交差する地点である、と理解できるのです。それが具体的にどういうところか、現在どうなっているか、はまた別に調べるとして。

では「太郎五郎男」はどうでしょうか?

また人名についてあらましを「知っている」ならば、残りの「太郎五郎男」も自明なのです。男性であれば長男から「太郎、二郎、三郎、四郎・・」と続く。これは当然、知っている。

さて、問題はその次の世代です。二郎さんの3番目の男の子を、「二郎三郎」というのです。三郎さんの次男ならば「三郎次郎」。じゃあ、その次は?「二郎三郎」さんの5番目の男子は?これは「二郎三郎五郎」ではありません。重ねるのは2代まで、なのです。だから「三郎五郎」になります。

ただし、この原則は戦国時代くらいになると、いい加減になります。「松平二郎三郎」とは徳川家康のことですが、彼は二郎の三男ではありません。松平広忠の長男です。「二郎三郎」に格別な意味は無く、そう名乗っていただけ。

この辺りは、この時代になると朝廷に任じられたわけではないのに、たとえば「甲斐守」がそこら中にいるのと同じ感覚になります。ああ、織田信長は「上総介」を自称していましたね。

もう1つ補足すると、「太郎五郎男」の「男」という呼称は、本来は官職を持たない庶民を指すときに用います。「太郎五郎おのこ」とか読んだのでしょう。

ただし、室町時代には幕府に使える武士にも官職を持たぬ者はたくさんいましたが、彼らを「小笠原三郎男」などとは言いません。だから、武士ではない庶民、と言うような意味で用いているのだろう、と推測できます。

さて、これらのことを踏まえると、「五条坊門東洞院太郎五郎男」とは、 五条坊門東洞院に住んでいる太郎五郎という男、の意味になります。

解説すれば「なあんだ」ですけれども、常日ごろ古文書読解にいそしみ、鍛練を積んでいる皆さんがここで躓いたのです。そうすると当然、全体の意味がとれなくなってしまう。何が書いてあるのかわからない、と皆さん口を揃える仕儀にあいなりました。

それでぼくは改めて痛感しました。「知っている」ということは、相当に立派なことなのかもしれないなあ、と。