進化は直線ではない。その理由を「低すぎる山」を眺めながら教えます

山はどこから山なのか?
佐倉 統 プロフィール
山と山裾Photo by Brodie Vissers from Burst

「佐倉君、山はどこから山なんだ。山と山裾の境目は、はっきりしない。だけど、山として盛り上がった地形を認識することは有効だ。境目がはっきりしないからといって、その概念が意味がないということにはならないんだよ」

目を開かされた気がした。たしかに「群れ」という概念はあいまいだし、いろいろな機能ごとに違うフェイズをもっている。だけどそれは、ぼくたち人間がサルの集団を認識するときに「群れ」という概念が有効でないということを意味はしない。

付き合う仲間の全体集合を「群れ」と定義することは、サルの社会行動を考える上では意味がある。

もちろん、個体同士の親密さには程度の差がある。人間社会の場合にはその差がはなはだしいので、親密な食事を共にする相手と、職場での退屈な会議の構成員とを同じ「群れ」のメンバーと考えるのは抵抗があるが、それでも、ひとりの人間に注目してみれば、その人がどのような人とどのような付き合いをしているかを想定して、そのネットワークの範囲やあり方を調べることは、人間の社会性を知るためには重要なアプローチだ。

サルの場合は、場面ごとの個体構成は人間ほど大きくはない。なので、Aさんの仲間ネットワークとBさん、Cさん、Dさん、……の仲間ネットワークにはほとんど差がない。この共通部分を「群れ」と名付けることには意味があり、その概念はニホンザルの社会のあり方を知る上で有効だ(なお、チンパンジーはニホンザルよりはるかに離合集散するので話がややこしいが、ここでは省略する)。

概念の定義が明確であるかどうかと、その概念が有効であるかどうは、別の問題なのだ。

河合雅雄河合雅雄(1984年撮影) Photo by Kodansha Photo Archives

同じことは他のさまざまな領域でも当てはまる。

たとえば、科学と疑似科学の境界ははっきりしない。このことから、科学の方法論自体の有効性を批判したり、ときには疑似科学を擁護したりする論調もある。

だけどこれは明確に間違っている。

たしかに、科学と疑似科学の区別が付きにくいことはある。疑似科学的な発想から科学的な大発見が生じたことも、珍しくない。今では常識となっている大陸移動説は、1912年に提唱されたとき文字通りトンデモ科学扱いされた。のみならず、提唱者のアルフレート・ヴェーゲナーの存命中はついぞ科学的な理論としては認められず、彼は失意のうちに亡くなった。

だけど境界が曖昧であることは、「明らかに科学的である」領域と、「明らかに疑似科学的である」領域とが存在することを、なんら否定はしないのである。

天保山が山であるかどうかは疑問の余地があっても、富士山を山でないと言う人は誰もいない。

科学的方法論の概念は有効だし、有用だ。同時に、疑似科学的な知見は有害だし、インチキだ。

境界境界が曖昧でも、明確に判断できる領域はある Photo by Getty Images

学問の高みと深み

大学院を修了して、科学論の分野に転進したころ、テレビで科学論研究者の村上陽一郎さんが新進気鋭(当時)の進化生物学者と対談する番組があった。NHK教育、今のEテレ。たしか2ー3回にわたってオンエアされたように記憶しているのだが、ネット上には情報が見つからない。

どんな対談内容だったかほとんど忘れてしまったのだが、ひとつだけ鮮明に覚えているのは、番組の終盤、進化論と社会の関係が話題になったときのやりとりだ。