台湾と金沢、忘れられた2つの「民衆蜂起」が僕らと「関係ある」理由

隠喩としての「斜面」
水越 伸 プロフィール

原住民と帝国日本の二重の上下関係

台湾にいるあいだに僕は「霧社事件」の起こった場所を訪れた。

霧社事件霧社事件・抗日蜂起のリーダー、モーナ・ルダオ(莫那魯道)像 (筆者撮影)

霧社事件とは、1930年、台湾中央山脈にある霧社という地域で、原住民のセデック族が抗日蜂起をし、それに対して帝国日本軍が反撃して鎮圧した一連の事件のことだ

※台湾では先住民ではなく原住民という言葉を使うので、ここでもそれを踏襲する。言葉のニュアンスが日本とは違うのである。

植民地支配の下、原住民の間に溜まっていた不満が爆発したのである。

まず、原住民によって霧社在住の日本人百数十名が殺された。これに対して帝国日本軍や警察は大砲や航空機などの近代兵器を用い、数多くの人員を山深くに送り込み、大規模な鎮圧作戦を展開した。

その結果、約700人が死亡、500人が投降したという。

1895年から当時まで35年続いた植民地体制の中で、原住民統治は比較的うまくいっていたとされていた。だが実際のところ、大半の日本人は高地に住む原住民の存在やその暮らしをよく知らなかったのである。

山奥に住み、警察や帝国日本軍に徹底抗戦した屈強なセデック族に、当時の帝国日本の人々がいかに驚いたことか。

一連の出来事は、2011年の台湾映画『セデック・バレ』で鮮やかに描かれ、台湾では大いに話題となった。霧社事件をこのような映画として描けるようになったこと自体が、台湾社会の成熟を示しているとみることもできる。

台湾の原住民は、台湾島の山岳地帯と東部、あるいは東南部海岸に数多く居住している。

17世紀前後以降、清から漢民族が徐々に平地に移り住むようになったため、徐々に高いところへ移動を余儀なくさせられたのだろう。強い者たちが平坦な低地に住み、弱い者たちが高地や平坦な土地のない地域に住むことになったのだ。

清もその前に台湾を部分支配していたオランダも、平坦な土地には進出したが高地へは行かず、そこに住む原住民を馴致させることはできなかった。

帝国日本は支配者として初めて山岳地帯に入り、そこで原住民との間で起こった衝突が霧社事件だった。

『セデック・バレ』のなかで帝国日本は権力者として描かれ、セデック族は純粋で聖なるイメージを持つ勇猛果敢な民族として描かれている。軍事力の観点からすれば低地の帝国日本が上だったが、真正さ、神聖さの観点からすれば高地のセデック族が上だったと表象されている。

この二つの上下関係が映画に奥行きを与えていた。

Z軸とXY平面をつなぐもの

安政の泣きの一揆と霧社事件は相異なる民衆蜂起だが、いずれも高低差がもたらす上下関係をはらんでいた。そしてその上下関係は権力作用を帯びていた。

ちなみに国立政治大学は中国大陸からやってきた国民党の肝いりでつくられた大学であり、国民党が台北中心部ではなく、箱根湯本のような丘陵地をキャンパスとして選んだことにも、そのような権力作用が働いていたのではないか。一方、帝国日本がつくった名門、台湾大学は中心部の低地にある。