台湾と金沢、忘れられた2つの「民衆蜂起」が僕らと「関係ある」理由

隠喩としての「斜面」
水越 伸 プロフィール

江戸時代末期のこの時期、天候不順で米はあまり穫れず、買い占めなどもあって米相場が高騰し、人々の暮らしが逼迫した。城下に住む髪結いの亭主、能登屋佐吉ら7名のリーダーがひそかに連携し、7月11日の夜、約2000人の人々を組織して卯辰山へ登り、金沢城へ向けて、シュプレヒコールをあげたのである。

「中納言さん、ひもじいわいや〜」
「ひだるいわいやぁ〜。米くれまいや〜」

江戸時代、加賀藩は金沢城より標高が高い卯辰山に庶民が登ることを禁じていた。人々はその禁を犯して山へ登り、天守閣を見下ろして大声をあげたのだ。

その声は2キロ弱離れた城内にまで届く。驚いた殿様の前田斉泰は、翌日、藩が備蓄していた米を市場に放出し、米相場を沈静化させる命令を出すなどして、事態の沈静化に努めた。

7名のリーダーらは死罪になるが、暴力を伴わない一揆を成功させたといわれる。

ちなみに佐倉惣五郎が幕府へ直訴する物語が歌舞伎の義民物として大ヒットしたのが、この一揆の7年前の1851年。おそらくそのドラマツルギーは北陸にも伝播していたのではないだろうか。安政五年はまた、日米修好通商条約が結ばれ、幕藩体制が大きく揺らぎはじめた年でもあった。

『安政五年七月十一日』の主人公は能登屋佐吉の息子、政吉で、当時の僕と同じくらいの少年だ。彼の目を通して描かれる城下の人々の暮らしや一揆にいたるまでの動きは、父親が死罪になるという悲しい結末を迎えるにもかかわらず、不思議に明るく、生き生きしたものだった。

勝尾は民衆史的な観点を児童文学に取り入れたのだと、今にして思う。

殿様という権力者は金沢城という高いところにいた。城下の低いところにいた庶民は、城より高い卯辰山に登り、高低差を利用して権力者に直訴したのだった。

もし同じ2000人がお城をぐるりと取りまいて城下から声を挙げたとしたらどうだったのだろうか。仮に下から声が届いたとしても、上からの声ほど殿様を驚かせはしなかったのではないだろうか。

現実社会で高低差は上下関係に結びつく

猫空(マオコン)や卯辰山を、三次元座標空間に再現するのは比較的簡単である。そこでの山の高さはZ軸上の数値として表すことができる。それが「高低差」である。

しかし座標空間から現実社会に高低差が持ち込まれると、高低差は「上下関係」という、権力的な意味合いを持った言葉と結合することになる。

座標系Photo by Cronholm144 / Public Domain

僕たちは上下関係という言葉をごく自然に使っているが、よく考えてみると「上」も「下」も空間の相対的な位置を客観的に示すのではなく、それらが対になって特定の文化的意味を持つフレームワーク(認識枠組み)を示していることに気づかされる。

加賀藩にとって金沢城の天守閣は権力の象徴だったはずで、それを見下ろす位置にある卯辰山との上下関係はなんとも微妙だったわけだ。

卯辰山から金沢城趾(画像中央上部)を望む卯辰山から金沢城趾(画像中央上)を見下ろす (中島忠氏撮影)

しかし高低差がもたらす上下関係が逆に働くこともある。高いところにいる者に必ず権力があるとは限らない。