いま思えば、不思議な偶然なのですが、そのときわたしは彼と長女と一緒に帰国していたのです。

病院で、母はたったひとりで、父の命の期限を聞きました。最初は自分だけで受け止めて、ほかの誰にも伝えずにいようと考えたようですが、お医者さまにそれはあまりに重すぎるので、子どもたちに伝えたほうがいいと言われ、たまたま帰国していた私を含めた姉弟3人が集められました。

「パパの検査の結果が良くなかったの。悪いけれど、あなたたち3人で先生に話を聞きに行ってちょうだい」

母にそう言われたとき、〝これはただごとではない〟ということは理解しましたが、まさかそこまで短い命の期限を宣告されるとは思っていなくて……、残酷な事実を耳にしたときはただただ驚き、その後、たくさん泣きました。

私たちにできることは

たしかにその当時の父はいつも疲れていたし、食も細くなり、ただでさえスリムな体がより一層、痩せていきました。あとになって思い返すと、サインはいっぱいあったのです。でも、まさか余命3ヵ月だなんて! 結局、父には病名や余命は伝えませんでした。

父に残された時間はごくわずか。いつまでも泣いてばかりはいられません。もともと団結力のある家族ですが、さらにぎゅっと密着して、何度も何度も家族会議を開きました。

パパのそばで何をしてあげられるか、誰がパパのそばにいるか――。

医学的にはわたしたちは何もしてあげることはできない。でも、パパが楽しくいるためにできる限りのことをしようと誓いあいました。

家族会議の雰囲気は、不思議なくらい明るいものでした。ちょうどその頃、飼い犬のまりが妊娠していたんです。それがなんだかおかしくて、「よりによって、こんなときに妊娠するか!?」と、突っ込みを入れたりして、いつも笑いが出ていました。わたしたちが悲痛な顔をしたり、メソメソしていたら、きっと父だってつらいはず。時にはシャンパンを空けながら、父のためにできることを家族全員で話しあいました。

手の施せない状態なら、家で過ごしてもらいたい――。曽祖母のときと同じように家族みんなが集まる居間にベッドを置いて、家族に囲まれて過ごしてもらおうと、介護ベッドを入れて、一度、家に連れて帰りもしました。でも介護というのは思った以上に大変なものなのですね。女性であるわたしたちには、父を抱き起こすだけでも一苦労でした。でもやるしかない! と一致団結しましたが、最後は病院にお世話になり、家族が交代で、つきっきりで看病することとなりました。病院の方々には本当にお世話になりました。

お別れのとき

父が病に倒れたとき、母は十字屋で働いていましたし、その頃、弟も自分の会社を立ち上げたばかり。いちばん父のそばにいられるのは、妹とわたしです。ただ、ふたりとももうすぐ1歳になる子どもがいて、またわたしは本来ならばパリに住んでいるわけですから、それも簡単なことではありません。

3月末に告知を受けてから、わたしはパリに戻って奈津江を彼に託し、すぐ東京に帰ってきました。5月の連休には、彼も娘を連れて日本に来てくれたのですが、当時、彼は会社勤めをしていたため、長期間、日本にいることはできません。

彼と娘は5月8日に、わたしはその数日後にパリに戻る予定で、飛行機を予約していました。でもなんとなくもう少し日本にいたい、いてもらいたいと思い、帰国を少しだけ延期してもらえないかと彼に頼んだのです。彼は快く承諾し、帰国を11日に延ばしてくれました。

そして、2005年5月9日。父は亡くなりました。