市場という魔物と戦う証券マンには、たとえプライベートを犠牲にしてでも大勝負に臨まねばならない時がある。若手債券ディーラーの「ぼく」は、とある企業の業績悪化に翻弄された結果、思わぬ要求を敏腕投資家から突きつけられて……。
息詰まる証券ディーラーたちの攻防を描く「東京マネー戦記」第11回。
(監修/町田哲也)
ぼくが結婚したのは、32歳のときだった。
学生の頃につき合いはじめてから8年が経ち、彼女は30歳を迎えようとしていた。決断するタイミングとしては、ちょうど良かったのかもしれない。
結婚準備は、時間に追われ通しだった。お互い仕事をしながらなので、打ち合わせをする時間が確保できない。週末に何度か結婚式場を下見したが、式場のスタッフに任せる形で進めることが多かった。
ぼくは債券ディーラーとして3年目を迎え、チームの中心的な役割を任されるようになっていた。
マーケットの状況は悪くなかった。2005年8月末の郵政選挙後は株価の上昇が続き、企業の信用力は回復傾向を鮮明にしていた。社債も値上がりし、保有しているだけで利益が上がってくる。在庫を多めにしていたことも、ぼくの利益を押し上げていた。
市場の反転には、常に警戒していた。利益を確定することもできたが、上昇を続けるマーケットでそんな考えは説得力を持たなかった。投資家の動きが止まりはじめていることにも感づいていたが、高値警戒感という言葉で説明しようとしていた。
マーケットが動くきっかけになったのは、Kという自動車部品メーカーの業績悪化だった。外資系企業の支援で立ち直りつつあったが、その外資が自らの業績悪化を理由に、突然経営から手を引くという。このニュースに市場は大きく反応した。
K社の株価は連日ストップ安を続け、メインバンクは融資に追加担保を設定しようとしているという噂だった。しどろもどろの社長の釈明会見は、いつつぶれてもおかしくない会社の実情を世のなかにさらけ出したようなものだった。
しかしぼくの頭のなかは、K社でどう稼ぐかでいっぱいだった。毎日のニュースを咀嚼し、会社の財務内容を確認する。投資家の保有分析から売り圧力を計算し、どこまで下がればマーケットに買いが入るか見通しを立てる。
そんな戦略が、チームヘッドの木村悟志には意外に思えたようだった。
「何でこんな会社で勝負したいんや。ほかにも稼げそうな会社はいっぱいあるやろ」
「一番儲かりそうな匂いがするんですよ。昔からある名前の通った企業で、保有している投資家が多い。信用力の変化に、市場が不安になっている。しかし規模が大きすぎて、つぶすには影響が大きすぎる。材料はしっかり揃ってます」
「財閥系っちゅうのが気に食わん」
「それも勝てると考えるポイントです。親密な企業の支援を得られやすい」
「Kグループからか?」
「いつつぶれてもおかしくないのに、社債の価格が80円台までしか下がらないのは、財閥系だからです。もう一発でも不祥事が起きれば、買うチャンスが来ます」
「まあ、好きにせえや。ストーリーができあがってるなら、信じてやってみるんやな」
最後はぼくに任せてくれるのは、いつも通りだった。木村は、部下が迷っている姿を見るのが嫌いだった。迷っていいのは投資家であり、ディーラーは確信しなければいけない。ぼくが成長した姿を見せるチャンスでもあった。