陸上に捧げた80年の生涯。この人ほど「かけっこ」を愛した人はいなかった
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名伯楽・小出義雄監督が、教員時代の教え子に遺した言葉

何度も挫折を乗り越えて掴んだものとは

小出義雄、享年80歳。日本の陸上競技界を代表する名伯楽と言っていいだろう。

有森裕子(バルセロナ五輪銀メダル、アトランタ五輪銀メダル)、高橋尚子(シドニー五輪金メダル)を始め、多くの名ランナーを育てた。有森も高橋も、彼の元にやってくるまでは、まったく無名だったランナーだったのだ。

小出は、あの長嶋茂雄と同じ千葉県佐倉市に生まれ、なによりも「かけっこ」を愛し、体育教師となった。長嶋の母校である佐倉高校の教員時代の教え子である黒田順子氏は、その後、テレビ業界に身をおき、取材をきっかけに小出と再会した。それから、人生の転機の度に、小出に相談にのってもらったという。

 

プロデュース力と先見性の人

小出義雄監督と初めて仕事をしたのは、今から24年前、私がまだほんの駆け出しの放送作家だったころだ。

実業団駅伝の特番を作るにあたり作家に大抜擢されたのだが、その理由は私が小出監督の教え子だったからだ。といっても陸上部のではなく、監督が千葉県立佐倉高校で教師をしていたときの教え子だ。だから私は、小出監督のことをいつも小出先生と呼んでいた。

小出監督(左)と黒田さん。佐倉高校同窓会での1枚

24年前の小出先生は、バルセロナオリンピックで有森裕子選手を銀メダルに導いた名監督としてすでに有名人だった。私が佐倉に取材に行くと、小出先生は教え子が取材に来たことにとても驚いていたが、終始ご機嫌でいろいろな話をしてくれた。

「あの子いいだろ〜、止めろって言うまでず〜っと走ってんだよ。あの子は絶対、強くなるよ。有森以上になるぞ」

そう言って紹介されたのが、リクルート入社1年目の高橋尚子選手だった。

TBSに残るQちゃんの一番古い映像はこのときのもので、小出先生が私相手にQちゃんをベタ褒めする音声が残っている。

それ以来、先生がテレビ局に来るときは必ず挨拶に伺ったのだが、いつも私のことを「この子はいい子なんだよ。優秀でなぁ」と褒めちぎる。私の成績は散々だったので苦笑いだったが、私もこの小出マジックに導かれた1人だと思っている。

小出先生と特に親しく話すようになったのは、8年ほど前からだったと思う。きっかけは、テレビの制作費大幅カットで仕事が減り、私が将来に不安を抱いていたある日のことだ。

成田空港であるアスリートの取材を終えた私は、思い切って小出先生に電話をした。すると、「おまえ、タイミングいいな。練習中だったら連絡つかなかったぞ」と言って喜んでくれた。そして「練習終わるまで待てるか? メシに連れてってやる」と誘っていただいた。何かを察してくれたのかもしれない。

小出先生が自ら運転して連れて行ってくれたのは、おしゃれなイタリアンだった。勝手に「小出先生= 居酒屋」とイメージしていた私は驚いたが、さすが女心を掴むのが上手い。

私の悩みをあっさりふっ飛ばしてくれた小出先生は、代表を務める佐倉アスリート倶楽部の現状について饒舌に語ってくれた。

小出先生は、「佐倉アスリート倶楽部の選手部屋は2LDKだぞ。お前んとこより広いだろ」と自慢しつつ、「そんで2億の借金こしらえちゃったよ」と笑った。

Qちゃんに金メダルを獲らせるため、自宅を担保にアメリカ・ボルダーの一軒家を9,000万円で買ったのは有名な話だ。「おっかぁにも相談しないで買っちゃった」というのは、小出豪傑伝説として鉄板ネタになっている。

そのときよりも多い、2億もの借金をどうしたのかという話になった。

「ある競技会場に行ったら、一番目立つところにユニバーサルエンターテインメントって書いてあってな。これは金持ってる会社に違いないと思って、ツテを使って社長と会う約束取り付けたの。それで陸上部作りませんかって。ガハハハハ」

佐倉アスリート倶楽部は独立した会社なので、違う企業の選手でも同時に預かることができる。小出先生は、こうしたプロデューサーとしての手腕、そして先見性も持っている人なのだ。

私は、前から聞いてみたかったことを聞いた。なぜ男子ではなく、女子の監督になったのかだ。

「俺が教員になった昭和40年代はよぉ、ケニアやエチオピアの女性は陸上をやれるような環境じゃなかったんだよ。だからな、女子だったらオリンピックで金メダルを獲れるんじゃないかって思ったんだ。当時、オリンピックの女子の種目は800mまでしかなかったけど、いずれ女子マラソンがオリンピック種目になる日が来ると思ってな」