明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか

改元を機に考える「象徴とは何か」
原 武史 プロフィール

明仁上皇が考える「象徴とは何か」

明仁上皇は「おことば」の中で、「天皇の務め」あるいは「象徴的行為」として、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を二つの大きな柱として位置づけました。すなわち、前者は宮中祭祀であり、後者は行幸啓を指しています。

宮中三殿ないしそれに付属する神嘉殿、宮殿で定期的に行われている儀式が宮中祭祀。行幸啓は、これまで論じてきたような全国への訪問、「旅」のことです。行幸啓を繰り返すのは、「常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる」ために重要であるからだ、とも述べています。

この二つの「象徴的行為」に関して、先にも少し触れた通り、美智子上皇后が非常に重要な役割を果たしました。美智子上皇后は、宮中祭祀や行幸啓に積極的で、ある面では天皇以上に熱心に祈り続けてきました。

詳しくは拙著『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』でも論じましたが、その背景には、美智子上皇后がカトリック的な家庭で育ち、中学から大学にかけて、カトリックの学校である聖心女子学院で学んだことも影響したでしょう。

カトリックにおいては、神道以上に「祈り」に重きが置かれています。自ら膝をついて国民と話すという方法も、カトリック的なものといえます。事実、結婚して初めての地方視察の途上、美智子皇太子妃が老人ホームで膝をつくまで、皇族が国民の前でひざまずくことはあり得ませんでした。

 

さらに美智子上皇后は、1963年に第二子を流産したときも、1993年に失声症になったときも明仁上皇とともに地方に出かけ、手話を含む対話を重ねるなど、ほとんど休むことがありませんでした。雅子皇太子妃が体調不良に悩まされ、国民の前に姿を表す機会が減ったのとは対照的だったとも言えるでしょう。

そうして、明仁上皇と美智子上皇后は二人で、曖昧だった「象徴」の定義をある意味で戦略的に作り上げていった。その「象徴」の務めを満足に果たせなくなれば、摂政を置くことや公務を縮小することで対応するのではなく、退位するしかない――それが「おことば」におけるメッセージの核心でした。

令和は、国民の「自覚と議論」の時代に

そのような「象徴」の定義が望ましいものか否か、また、現代日本において憲法で禁じられているはずの天皇の権力性をどう評価すべきかについては、主権者である我々国民がもっと広く深く、少なくとも明仁上皇と同じくらいしっかりと考えぬくべきでしょう。

おそらく令和の時代に、明仁上皇と美智子上皇后は、この「象徴としての務め」を徳仁天皇と雅子皇后に引き継いでほしいと考えているはずです。しかし徳仁天皇と雅子皇后が、その意思や適性を持っているかどうかは未知数です。新しい時代には、また新しい「象徴」のあり方が模索されることになると思います。

では、譲位した上皇・皇后は公務から退くとして、私的活動をどの程度行うのか。その活動の程度によっては、権威の二重化の可能性が出てくることは否定できません。そこにはさらに、皇嗣となる秋篠宮家の位置付けも深く関わってきます。二重化どころか三重化する可能性すらあるのです。

令和に入り、ますます皇室をめぐる権力構造が複雑になることは間違いありません。その時、主権者たる国民が天皇と皇室に無頓着であってはいけないのです。

(後編につづく)