明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか

改元を機に考える「象徴とは何か」
原 武史 プロフィール

「災害の時代」平成がもたらしたもの

2016(平成28年)8月の「おことば」に至る過程において、見逃せない明仁天皇の「おことば」が、実はもうひとつあります。それは、2011年3月11日の東日本大震災直後に発せられたメッセージです。

震災発生から5日後の3月16日16時35分、明仁天皇が読み上げる「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」がテレビで放映されました。震災と原発事故の影響を憂い、また被災者、防災関係者を励ますメッセージは、かつてないほど大きな不安におびえる国民の心に強く響きました。

一部には、この時「平成の玉音放送」と指摘する向きもありました。しかし、その後7週間にわたって天皇皇后が被災地を訪問し続け、被災者の前でひざまずく姿が盛んに報道されると、「この国に天皇陛下がいてくれてよかった」というような、極めて好意的なリアクションが増えてきたと記憶しています。それは被災地で罵声を浴びた当時の菅直人首相とは、きわめて対照的でした。

実は、当時東京都知事だった石原慎太郎が「若い人(つまり、皇太子や秋篠宮)を名代にしては」と進言したところ、明仁天皇はそれを断り、自らの強い意志で被災地に赴いたといいます。実際には皇太子や秋篠宮も被災地を訪れましたし、政治家や宗教者も訪れたにもかかわらず、真っ先に訪れた天皇と皇后の存在感ばかりが強調されたのです。そのイメージは、強く国民に記憶されることになりました。

 

この震災後の「おことば」があったからこそ、そして平成を通じて築き上げた「国民と共にある」象徴天皇像がしっかりと国民に浸透していると感じたからこそ、明仁天皇は、退位の意向をビデオメッセージで国民に伝えようとしたのではないでしょうか。

平成は、東日本大震災に限らず、雲仙普賢岳の大火砕流、北海道南西沖地震や阪神・淡路大震災、中越地震、各地の水害など、大災害が頻発した時代でした。そして大災害が起きるたびに被災者に寄り添うことで、明仁天皇と美智子皇后は「平成流の天皇像」を確固たるものにしたとも言えます。

美智子上皇后の「大きな役割」

ふたりは目線を国民に近づけ、国民の安寧を祈ってきました。かつての行幸啓につきものだった在来線の「お召し列車」はめったに使わなくなり、新幹線や飛行機、自動車で移動し、列車に乗るときには窓から手を振って歓声に応えた。スーツとドレスではなく、ワイシャツを腕まくりし、作業服を身にまとって被災地に入るようになった。

こうした天皇皇后の旅は、実のところ皇太子の時代から始まっていました。その過程において、皇太子妃・美智子の果たした役割は非常に大きかったと言えます。

1958(昭和33)年の婚約発表をきっかけとして東京を中心に湧きおこり、60年代の皇太子夫妻の行啓とともに地方へと拡散した「ミッチーブーム」が、同時代の昭和天皇と香淳皇后の行幸啓を上回る人出を各地で集める要因となったことは間違いありません。

戦争体験とその真摯な反省でつながるふたりは、平成30年間だけでなく、成婚からの60年にわたって「旅」をしてきたのであり、それは近年取り組んでいる、海外の戦没者慰霊の旅にも通じています。

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退位した明仁上皇、そして美智子上皇后の「親しみやすさ」は、こうした長年にわたる行幸啓によって醸成されてきたということです。

このような「旅」が、明仁上皇が考える「象徴としての務め」の核心に置かれていることは、2016(平成28)年の「おことば」の中にも明記されています。

「象徴天皇制」とは言うものの、そもそも日本国憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるだけで、「象徴」の内実については何ら具体的な定義がありません。

この「象徴」について、明仁上皇が自ら定義を示したのが、「おことば」であったと言うことができます。