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明仁上皇が作り上げた「平成の天皇像」は令和に引き継がれるか

改元を機に考える「象徴とは何か」

平成から令和への改元が行われた。ともすれば祝福ムードに覆い隠されそうだが、およそ200年ぶりの「天皇の退位・譲位」は、日本国民に「天皇と皇室のあり方」について重い問いを突きつけてもいる。

新たな令和の時代、「象徴天皇」の未来を考えるうえで重要なのは、明仁上皇・美智子上皇后が築いた「平成の天皇像」の本質を知ることだ。新著『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)、『天皇は宗教とどう向き合ってきたか』(潮新書)でも鋭い天皇論を展開する、放送大学教授・原武史氏の緊急インタビュー。

(取材・構成/伊藤達也)

 

天皇を語れなくなった危機感

今回の代替わりのきっかけとなったのが、もとを辿れば、明仁上皇が退位の意向を明らかにしたことだったのは、皆さんも記憶に新しいと思います。

2016(平成28)年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(以下、「おことば」)についてはその後、様々な議論が行われてきました。しかしながら、それらの議論は本質を外れたものに終始していたと私は感じます。

ある人は「天皇の第二の人間宣言だ」と言い、ある人は「現政権への不満を明らかにするものだ」と言い、著名な憲法学者ですら、天皇の「やむにやまれぬ希望の表明」であると評価した。また一般の国民は概して、高齢の天皇への労りや敬意、感謝の気持ちを抱くにとどまった印象があります。

はっきり言って、こうした反応に私は失望しました。「おことば」が発せられた背景にある権力構造も、読み解くべき内容についても、まったく深い洞察が行われず、「天皇とは何か」「象徴とは何か」という議論も起こらなかった。

それはおそらく、平成の30年間が、いかに「天皇」がリアリティを失った時代であったかの証左だったと言えるでしょう。

私には、日本人が「天皇」を語る言葉や分析の枠組みを失ったまま、令和を迎えてしまうことへの危機感があります。

今回の退位そのものが端的に表しているように、いま皇室は多くの課題を抱えています。これから始まる新たな時代には、変わってゆくであろう新たな天皇のあり方、皇室のあり方について、国民ひとりひとりがしっかりと自覚し、考えてゆかねばなりません。

その前提として、まずは令和という時代の起点となった、前述の「おことば」の本質について、振り返っておきましょう。

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「おことば」が持っていた強大な権力

「おことば」は、高齢となって「象徴としての務め」が果たせなくなった天皇の「人間宣言」である――という解釈が一般的になっています。しかし私は、「おことば」には政治的なニュアンスがきわめて色濃くにじんでいると見ています。天皇が持つ、強力な「政治性」や「権力性」の発露が「おことば」であった、と考えるべきです。

天皇自らが、国民全体に対して肉声を発することは、明治から昭和初期、つまり大日本帝国時代の言葉で言えば「勅語」や「詔書」に相当します。かつて発せられたものの中には、平成の「おことば」と類比できるものがあります。

それは1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇によって発せられた「終戦の詔書」、つまり「玉音放送」です。言うまでもなく、太平洋戦争を終結に導いた「玉音放送」は、天皇の持つ強大な権力が端的に現れたものでした。

明仁上皇と美智子上皇后が築いてきた「平成流」の象徴天皇のあり方は、こうした「不特定多数の国民(臣民)に対して、一方的にメッセージを発する」というものではありませんでした。

ふたりは日本中をくまなく訪ね歩き、災害があればすぐに被災者のもとに駆けつけ、時には膝をついて国民の目線に立ち、一人一人の顔を見ながら自らの思いを語りかけてきました。北海道の宗谷岬から沖縄県の与那国島まで、日本全国津々浦々への「旅」が、「平成の天皇像」を形作ってきたと言えるでしょう。

戦後に作られた日本国憲法によって、法律上は天皇が政治権力を持つことはなくなりました。また平成の時代には、もはや戦争の影も薄れてきます。そのような時代に、いかにして「日本国民統合の象徴」となるか。

「平成流」を考え抜いた結果が、明仁上皇自身の「おことば」から引くならば、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」ということになるでしょう。