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家に入れた見知らぬ青年は殺人犯!日常生活で出逢った人々との物語

わたしの転換期は雲の中

「ボルドーの義兄」

古いカレンダーを見ると、2006年4月17日の夜行列車でベルリンを出発し、翌日ボルドーに着いたことになっている。そして約2ヵ月後の6月11日に空路でベルリンに戻ったようだ。フランスに滞在した中では、このボルドー滞在が一番長かった。

 

1ヵ月までの短い滞在なら、日常生活に必要なものを調達し、イベントをこなし、人に会い、美術館に行き、散歩していれば終わってしまう。ところが2ヵ月となると、「これは移住なのか、それとも旅なのか」と魂が迷い始める。

旅人は町の光景を記憶に焼き付け、写真を撮り、家に持ち帰ろうとする。移民はそれとは逆に、あとに残してきた故郷の記憶を今ここに呼び寄せようとする。

わたしが24年暮らしたハンブルグからベルリンに引っ越したのは、同じ年の3月初めだった。「ボルドーの義兄」はその転換期の不安定な心を映しだしている。

作中人物との出会い

ボルドーに到着した日、わたしを駅まで迎えに来てくれたクロードという人がいた。アキテーヌ地方の彼の属する文学協会がわたしを招待してくれたのだが、英語がコミュニケーションの道具として充分に機能しなかったため、逆に会話が楽しかった。

「プール」という英単語が思い出せなかった彼が、地図の一点を指さして、「ここに水がある」と説明してくれたのが忘れられない。水と呼ばれることで、プールは川や海と呼応し合い、官能的な意味の広がりを取り戻した。

クロードはわたしを迎えに来てくれた翌日から入院してしまったので、二度と会うことがなかった。だからわたしは実際にはクロードについて何も知らないに等しい。おかげでわたしはモーリスという架空の人物を自由に作りあげることができた。

ところがこの小説がフランス語で出版されてまもなく、「モーリスは自分だ」とソーシャルメディアに書いている人がいる、とある知人が教えてくれた。やがてそれがクロードであることが分かり、ボルドーで朗読会に呼ばれた際に何年ぶりかで再会することができた。

わたしの作品をすでに数冊フランス語に訳してくれているソルボンヌ大学教授ベルナール・バヌーンという人がいる。彼が論文集をつくる際に、クロードにも頼んでエッセイを書いてもらった。なんだか作中人物が本の中から出てきて今度は逆に作者のわたしについて執筆したようで嬉しかった。