『婦人公論』リニューアル

『婦人公論』は当時、月刊誌で文芸誌のように分厚い読物中心の女性の生き方を考える雑誌だった。会議で企画が通れば、著者や取材相手に手書きの手紙と企画書を郵送し、届いた頃を見計らって電話をかけた。そのうえで出かけて行き、会ってお願いする。何度か仕事をしている相手には、電話をかけて時間をもらい、企画主旨を説明した。原稿は手書きが主流で、ワープロの人が何人かいる状態だった。手紙や企画書を書く時は手にかかる負担が少ない万年筆を使う。

景気後退期を経て、1993年にバブルがはじけた。出版業界にも大きな影響が出た。『婦人公論』は1916年、大正5年に創刊され、当時と同じ版型のため、文芸誌と一緒に置かれ、女性誌のコーナーには並べられなかった。部数の低迷、読者層の開拓など問題を抱え、リニューアルすることが決まった。

A4変形で中綴じグラビア誌。月刊から月2回の発売に変わった。媒体資料としてゼロ号を出すが、専任は置かず、月刊誌を作りながら部員みんなで作る。1998年3月7日発売号がリニューアル創刊号と決まった。『婦人公論』の遺伝子を残しながら、どんなメッセージを発信するのか、それにはどのようなページが必要なのか、リニューアルの会議は何回も長時間行なわれた。

ルールを無視して痛み止めを何錠も

私は特集班で、表紙と目次の担当。ほかに小説とエッセイの連載、映画、舞台などの情報ページを受け持つことになった。

当時は表紙と目次は完全版下での入稿だったため、印刷所での修正がきかない。神経が磨り減る作業だった。

リニューアル号の表紙は松田聖子さん。1泊3日でロサンゼルスで撮影するという強硬スケジュールだった。リニューアルの準備で疲労はピークに達し、リウマチの痛みも強くなったが、そんなことは言っていられない。「大丈夫。この痛みは、私のいつもの痛み。これが普通」と自らに言い聞かせ、私の中の痛みの基準をずらした。ためらいもなく着陸直前に痛み止めを飲んだ。いつも持ち歩くバッグには、たくさんの痛み止めを入れていた。

リニューアル4号目は、がんの特集だった。目次担当は編集長にタイトルの文字の大中小と順番を確認し、目次案を提出する。専門医の医療現場の記事、ホスピスの立場からの考え、治療最前線のルポ、患者の家族の体験記など各方面からの記事が並んだ。

目次を眺めていると、がん患者の記事があったほうがいいと思った。それも人間の内面を見つめ、気持ちの移ろいを表現することができる作家がぴったりだと。三浦綾子さんの名前が頭に浮かんだ。生きる姿勢、治療に対する考えを体験談で綴ってもらう。説得力があるはずである。

もう一本、特集の記事を増やすわけにはいかないかと編集長に申し出た。「校了まで1週間しかないから無理だ。すぐに三浦さんのOKが取れるとは思えない」と言われた。「インタビューしてすぐに原稿にし、著者校も最短でお願いできれば間に合います。相撲でも徳俵に足がかかってからが勝負です」と熱く訴えた。「そこまで言うのなら」と返事をもらった。

三浦綾子さんに電話で伝えると快くインタビューを引き受けてくれた。しかも翌日の午後1時から時間を空けてくれると言う。編集長に報告すると目を丸くしていた。