湘南ベルマーレを率いて8年めのシーズンを曺貴裁監督(photo by gettyimages)

平成時代、激変した日本サッカーを内側から見続けた男の証言

湘南ベルマーレ曺貴裁監督インタビュー

平成という時代にもっとも競技環境の変わったスポーツといえば、間違いなくサッカーになるだろう。

平成5年(1993年)のJリーグ開幕をきっかけとして、それまで夢舞台だったワールドカップや五輪に連続して出場するようになり、子どもたちの競技人口が飛躍的に増えていった。サッカー人気が常に右肩上がりではなかったものの、平成の30年間ではっきりとした成功を収めたスポーツと言っていいはずだ。

一方で、社会の移り変わりとともにサッカーの、スポーツの在り方が変わってきている。Jリーグというプロリーグの誕生で日本のサッカーはどのような変化を遂げ、令和の時代はどこへ向かっていくべきなのか。選手、監督として平成の時代を駆け抜けた湘南ベルマーレの曺貴裁(チョウ キジェ)監督に聞いた。

 

1993年のプロ化は不安だらけだった

──曺さんは平成3年(1991年)に早稲田大学を卒業して日立製作所へ入社、日本サッカーリーグ(JSL)1部に在籍するサッカー部の一員となりました。

「僕が入社する直前に、1993年に開幕するJリーグの参加10チームが発表されたんです。日立がそのなかに入るという話はありつつも実際には入らず、それに対するショックは少なからずありました。ただ、プロサッカー選手になろうと思って日立を選んだわけではなかったんです」

──JSLを構成する企業チームでは、ほとんどの選手は働きながらサッカーをしていました。プロ化の足音は聞こえていましたが、果たしてJリーグは本当に成功するのかという声もあった。1991年というタイミングでは、プロサッカー選手という職業を明確に意識するのは難しかったでしょうね。

「千葉県柏市のサッカー部の寮から、本社のあった東京のお茶の水まで電車で通勤していました。午前中から仕事をして、夕方や夜から練習するのが基本的なスケジュールでした。配属されたのは宣伝部で、日立では花形と言われる部署だったんです。日立は入社から3年間は研修員という立場で、論文を書かないと正社員になれないんですね。僕はその3年で会社を辞めたので、上司にも家族にもホントに反対されました。『日立でサッカーをやるだけやって、現役を引退したら会社に戻ったほうがいい』と。

当時は社内の人間関係がいまよりいい意味でウェットで、終身雇用の風土もありましたからね。僕も社員になるために論文を書きましたし、仕事はとても楽しかったのですが……」

京都府立洛北高校、早稲田大学を経て、日立製作所へ。冷静沈着かつ闘志あふれるディフェンダーとして活躍した

──1993年の開幕に間に合わなかった日立は、1995年からJリーグに参入します。会社を辞めなくてもプロリーグでプレーできたはずですが?

「日立は柏レイソルというチームとしてプロ化へ踏み出しましたが、一社会人として入った会社でプロサッカー選手になるのはちょっと違うんじゃないかな、と思ったんです。会社に残るなら社員のままで、プロになるなら離れようと。そうやって考えていたときに、浦和レッズからオファーをいただいた。

Jリーグを見渡してみると、高校や大学で一緒にプレーしたり対戦したりした選手がプロになっている。自分も一度は勝負しないと後悔する、と気持ちが変わりました。それで、1994年にレッズへ移籍したんです」

──迷いはなかったですか?

「迷いというよりも、不安でしたね。当時はプロ野球の2軍にあたるサテライトリーグが行われていて、レッズは50人ぐらいの大所帯でした。1軍、2軍がそれぞれ25人ぐらいで、完全に分かれて練習をしていました。プロってこういうものなのか、と思いましたね」

──2019年現在のJリーグのクラブは、1チーム30人前後の編成ですから、スケール感が違いますね。Jリーグ開幕から2年目で、どのチームもまだ手探りな部分もあったのでしょう。

「細かなところに、『これがプロなんだな』ということを感じました。たとえば、練習の前後にマッサージを受けたりするんですが、日立ではそこまで身体のケアを考えていなかった。仕事をしながらでしたので、物理的な時間がなかったのは確かですが」

──チームの雰囲気もプロ化されてから変わったんでしょうか?

「レッズの前身はJSLの三菱ですから、監督以下スタッフも当時から関わっていた方々が多く、日立に雰囲気が似ているところもありました。僕と同じように社員からプロになった広瀬治さん、土田尚史さん、福田正博さんがいたことも、そう感じた理由かもしれません。改めて振り返れば、いい時代でした」

──と、言いますと?

「僕らは社会人としてある程度のことを学んで、教えられて、そのうえでプロになる選択をした。いまの子どもたちは最初からプロを目ざしますよね。高卒や大卒でアマチュアチームに入って、そのあとプロになるというルートは選ばない。僕らは仕事をした経験があり、そのあとで自らプロを選択した。決断と選択の機会があった当時の選手のほうが、人間的に自立していた気がします。

日立の3年間では電話の取り方やタクシーの乗り方とか、お座敷での上座はどこといった細々とした常識から学ばせてもらいました。実はそういうものって、サッカー選手としても大事ですから。社会の成り立ち方に気づく貴重な機会でした」

──ピッチ内はどうだったんでしょう? 

「1994年のレッズは成績が振るわなくて……。そういえば、いまでは当たり前の準備となっている対戦相手の分析映像も、観たことがなかったような。リーグ戦は水曜日と土曜日の週2回が基本だったので、時間がなかったのかもしれません」

──曺さんが初めて出会ったプロフェッショナルな選手と言えば?

「レッズの福田さんですね。サッカーを普段からこれほど突き詰めて考えているんだ、と驚かされました。サッカーを仕事にしている人の言葉だな、と感じましたね。日本代表にも選ばれていましたから、オーラもありました」

──ギド・ブッフバルトやウーベ・バインといったドイツ代表選手も、レッズのチームメイトでしたね。

「彼らもプロフェッショナルでした。本物と呼ばれる選手だったと思いますが、僕ら日本人選手は遠慮せずに色々と言っていましたよ。ワールドカップで優勝したスター選手だから何も言えない、ということはなかったです。一緒に食事をしたり、バーベキューをしたりして、日頃から打ち解けていたからかもしれませんが、選手同士の関係性が深かったと思います。

いまの選手たちに比べたらサッカーはうまくなかったけれど、サッカーへの想いは負けていなかった。1996年から97年まで在籍したヴィッセル神戸でも、それは感じました」

──Jリーグ黎明期を現役とした過ごした曺さんらは、これからの日本サッカーを支えていかなければいけない、という思いがあったのでは?

「そういう使命感を帯びていた選手もいたと思いますが、僕はそこまでのレベルの選手ではなかったので。1997年を最後に現役から退きましたが、自分のレベルではこれ以上やるのは難しいと感じたことが理由でした。プロサッカー選手になることだけを考えてきた人生ではないので、他の選択肢があるという思いもあった。それで、1998年からドイツへ行ったんです」