スケジュールも何も真っ白な日々

真っ白な日々が続いた。

スケジュールは、明日も明後日も1ヵ月後も1年後も、何も入っていなかった

大学を卒業して社会に出てからの私は、スポーツライター、小学校教諭、東京都教育委員、講演活動、テレビ出演、映画出演、保育園経営……さまざまな世界で忙しく動き回ってきた。次々と舞い込む仕事の予定を隙間なく詰め込んでいくスケジュールは、いわばテトリスのようなものだった。

ニュースキャスターもつとめた「高下駄」時代

小学校で教師を務めたことがひとつの契機だったかもしれない。金銭的に恵まれた境遇に生まれた人もそうでない人も、障害がある人もない人も、男性も女性も性的マイノリティの人も、誰もが自分の意志で自分の道を選択することができる社会、多様性のある社会を実現したい。そのためにできることを一つ一つ進めていきたい。そんなことを考えるようになった。そして、その思いに沿って活動の場を広げてきたつもりだった。

しかし、人生が一変した。

24時間、自宅から一歩も外に出ることのない生活が続いた。テレビをつけても、インターネットに触れても私の悪評ばかり。できるのは、本を読むこととリビングでDVDを観ることぐらい。自分がこれから社会復帰をして、以前と同じように原稿を書いたり、講演に呼ばれたりする姿が、どうしたって思い描くことができない。

生まれつき手も足もない私は、逆境をポジティブに切り抜ける術には絶対の自信を持っていたはずだったが、今回ばかりは前向きになれる要素を何一つ見つけることができない。人生の折り返し点にようやく達した程度の年齢だったが、まるで社会的な死を宣告されたような気分だった。

求められる「ゲスな姿」

半年ほど過ぎるとメディアからのオファーがぽつぽつと入るようになった。ただ、メディアが求めるのはあくまで「ゲスな乙武さん」だった。多様性のある社会を実現するために発言する乙武洋匡は、もうまったく必要とされていなかった。

私はそうした状態でメディア出演を続けることに迷いを感じ始めた。もともとタレントになりたくてテレビに出ていたわけではない。伝えたいことを伝えられる場として、メディアに出ることを選んでいた。だが、その「伝えたいこと」を封印され、ただ道化師を演じろと言われるならば、メディアに出ることにはさほど意味がないのではないか。

そうしたジレンマに悩まされれば悩まされるほど、以前から抱いていたある思いがむくむくと頭をもたげてきた。それは「いつか海外で暮らしてみたい」という憧憬であった。当時はあまりに仕事が忙しく、海外に生活の拠点を置くなど夢物語でしかなかったが、これだけ仕事のない、スケジュールが余白だらけの状況なら、夢物語だと諦めていた思いを現実のものとできるのではないだろうか。

私はマネジャーの北村に相談をした。

4月から、しばらく海外に拠点を移したいと思ってる

北村はとくに驚いた様子もなく、ただ期間について尋ねてきた。

「しばらくって、どれくらいですか?」

「ひとまず半年間。できれば1年くらい……」