平成から令和の時代にお代替わりし、美智子さまも皇后の位を雅子さまにバトンタッチされた。この機会に、平成時代を振り返ってみてみよう。平成時代の幕開けとともに国民の注目を集めたのは、当時皇太子だった浩宮さまのお妃問題だった。
私は、皇室の取材を始めて60年ほどとなる。
昭和63年(1988)、私は日本テレビの報道局エグゼクティブ・プロデューサーとして昭和天皇のXデー(崩御の日)を中心とした皇室プロジェクトを担当していた。
職場の後輩スタッフの稲木せつ子ディレクターが、私を見つけて言う。
「渡邉さん、例の皇太子さまのお妃候補の小和田雅子さんが、外務省の研修で英国に留学するそうです」
帰国子女の稲木さんは、自身のネットワークで外務省の友人から情報を得たらしい。私は彼女に出発日を聞き出すよう指示しつつ、小和田家の事情を知る知人にもウラを取るなどして準備を進めた。
テレビのつらいところは、映像が必要なことである。説得力のある事実の映像があってこそ、初めて記者レポートのテレビニュースも威力を発揮する。つまり、「絵は口ほどにモノを言う」のである。
稲木さんは、外務省の友人に再びアタックをかけ、渋る相手を説得して、出発日を聞き出してきた。
7月1日、取材の配置は、まず目黒の小和田家前にカメラクルー(取材班)1班、成田空港に1班、さらに雅子さんが箱崎でチェックインする可能性を想定して東京シティエアターミナルに1班という水も漏らさぬ態勢をしいた。
稲木さんは、ベテランのカメラマンN氏とともに成田に向かう。
「音を録って来なさい。インタビューがだめなら、ひと言でも」
私の言葉を背に、稲木さんは成田へ向かう車に乗り込んだ。
雅子さんの渡英は、ただの旅行ではない。外交官の卵としての外務省の研修留学だから、外交官ビザが発給される。だから、雅子さんはJALの特別室にいたのだ。稲木さんが帰国子女独特の軽いムードで特別室に入り込むと、若い男女の中にいる雅子さんが目に飛び込んできた。
雅子さんは襟なしの細いストライプの入ったブラウスに麻のダークグリーンのスーツ姿。白いショルダーバッグをかけ、ベージュの中ヒールのパンプスを履いていた。胸元には、細い金のネックレスが光る。行動的なキャリアウーマンそのもののファッションだった。
ふくよかな日焼け顔とはじけるような若さと解放感。それが同世代の女性ディレクター稲木せつ子さんが見た、雅子さんの第一印象だった。はじけるような若さを持つ外交官の卵だった。
特別室の外で待つことおよそ1時間。雅子さんは見送りの家族や、同行する研修者とともに部屋から出てきた。
映像の狩人、Nカメラマンが雅子さんの真正面に入り込む。中腰で後ずさりしながら、雅子さんの姿をとらえて離さない。マイクを持った稲木さんが質問を浴びせる。しかし、雅子さんはこれをまったく無視。そればかりか、目の前で立ちはだかっているカメラを、まるで見えないかのように行動するのだ。
友人と会話を続け、
「じゃあね、ありがとう」
と手を振って、出国審査のゲートに入ってしまった。一度も後ろを振り向かなかったという。
「女性専科」と言われ美女を撮り慣れているNカメラマンでさえ、レンズを通してみる雅子さんを、
「ものすごい、いい女。妃殿下は人に見られるのが仕事ですからね。この方に皇太子妃になっていただきたいな」
と、帰りがけの湾岸道路から東京に向かって走る車の中で、感想を漏らしたという。現在では雅子さまに対して不敬に聞こえるかもしれないが、美しい対象に憧れる素直な気持ちの発露だったのだ。
報道にかかわるすべてのカメラマンは、「映像映えする妃殿下」を待ち望んでいたのだ。
その雅子さまに、私はロンドンで遭遇することになる。