井上毅を知らなくては、日本近代史は語れない

明治憲法をつくった人物
坂野 潤治 プロフィール

天保14(1843)年に熊本藩家老の家臣の子として生まれた井上毅は若くして秀才の誉れ高く、慶応3(1867)年には藩命により江戸に派遣されフランス学を修めた。明治4(1871)年に明治政府の司法省十等出仕に任ぜられて以降は一貫して司法畑を歩いてきた。先に記した太政官大書記官時代以後もいつも法制部を兼任し、特に明治憲法の公布と議会の開設時には法制局長官をつとめた。今日でも法制局長官は、“憲法の番人”と呼ばれるが、彼こそこの呼称にふさわしい人物であった。

67条と政費節減

法制局長官として初期の議会に臨んだ井上にとっての最大の課題は、衆議院の「政費節減」要求と明治憲法第67条の調整であった。

67条とは、明治憲法が天皇の大権と定めた行政、軍事、外交に関する「既定」の予算は議会といえども政府の同意なしには削減できないと定めたものである。あくまでも「既定の歳出」に限ったもので、行政費でも軍事費でも増額に関しては適用できないとはいえ、初期の議会においては、衆議院側にとっての大問題であった。

衆議院の過半数を占める「民党」(自由党と立憲改進党)は、農村地主や自作上層を最大の地盤としていたが、彼ら上層農民はその納める「地租」の軽減を求めており、そのために行政費の削減が最善の手段であった。ぜいたくすぎる官庁経費と多すぎる官吏の数と俸給を減らして減税をおこなえという要求は、今日でも多くの支持を得られるだろう。

法制局長官としてこの67条の制定に関与した井上毅は、同じく法制局長官としてこの衆議院の多数派の要求を退けなければならなかった。

開設当初の議会の要求は、軍事費や産業育成費には手をつけないで、もっぱら行政のムダを省いて地租を軽減せよというもので、政府には勝ち目のない議会解散しか対抗手段はなかった。“憲法の番人”たる井上自身も、行政のムダを省いて「富国強兵」の一助とすることなら賛成だったから、当初はこの問題に積極的には介入しなかった。それでも、自分も制定に参画した憲法の第67条によって政府が「不同意」を表明することの法的正当性は認めないわけにはいかなかった。

和協の詔勅

しかし、3回目の予算審議で「民党」が「既定」の行政費の削減を認めないなら、海軍軍拡費を削減すると言い出すと、井上も積極的に介入し、伊藤博文に説いて天皇をかつぎ出し、政府と議会の対立を一挙に解決しようとした。明治26(1893)年2月の「和協の詔勅」と呼ばれる勅諭がそれである。

伊藤博文(国立国会図書館蔵)

この勅諭によって天皇は、憲法67条によって政府が行政費の削減に「不同意」を表明したことは正当であると明言する一方で、民党の要求する行政費の削減そのものは、官吏に命令するから、海軍軍拡だけは認めるよう議会に要請した。ムダを省いて「強兵」に充てるという井上の持論が実現しただけではなく、議会開設後3回の通常議会で生じていた行政府と立法府の正面衝突にも幕が引かれたのである。

井上毅は明治憲法の生みの親の一人であったと同時に、それにもとづく議会制の定着の功労者の一人でもあったのである。

※参考文献 坂井雄吉『井上毅と明治国家』(東京大学出版会、1983年)

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