井上毅を知らなくては、日本近代史は語れない

明治憲法をつくった人物
坂野 潤治 プロフィール

大隈上奏文の起草者は福沢諭吉の高弟矢野文雄(龍渓)であり、彼と同じ福沢の高弟たちが起草した憲法私案が、同年4月の『交詢雑誌』に掲載された交詢社の「私擬憲法案」である。

この憲法草案は明治憲法の模範と言える精緻なもので、天皇大権、内閣権限、貴衆両院の権限などを詳細に規定したものであった。ただ、イギリスの慣習法を成文化したものだけに、天皇大権にも内閣権限にも周到に議会のチェックがかかっていた。天皇大権の行使には内閣の同意が必要であり、その内閣は衆議院の多数党によって選ばれるように定められていたのである。

大隈重信(国立国会図書館蔵)

三大臣と参議で構成される明治政府のなかで、これだけ周到な憲法草案を持っていたのは大隈だけであり、その大隈の上奏文によれば、翌年(明治15年)には議員を選挙しなければならないから、それ以前に憲法が公布されていなければならない。わずか1年強のあいだに憲法を起草できるのは、福沢をはじめとする交詢社知識人を味方につけていた大隈独りであり、三大臣や他の参議は大隈の後に従うしかなかったであろう。大隈の上奏が天皇の裁可を得れば、明治15年にイギリスモデルの憲法が公布されていたことになる。

憲法の番人

明治政府の保守派のなかで、イギリスの立憲制はそうでしょうが、ドイツの憲法はこうですよ、と言い切れたのは、おそらく井上毅だけだったであろう。伊藤博文の盟友井上馨が幕末に留学したのもイギリスだったし、2度目に明治政府の高官として明治9年から11年にかけて約2年間学んだのも、イギリスだった。しかも2度目のロンドン滞在中に彼は福沢の高弟たちの面倒を見てやりながら、学問的には彼らに助けられていた。

そのようななかで、井上毅だけがドイツモデルの憲法の骨格を岩倉具視や伊藤博文に示せたのは、明治5(1872)年にフランスとドイツを訪れた頃から、専門のフランス法だけではなく、君権の強いドイツ法も学んできたためである。

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