井上毅を知らなくては、日本近代史は語れない

明治憲法をつくった人物
日本の近代史を語るうえで欠かせない人物がいる。明治憲法の制定、そして議会制の定着という、まさに日本の構造をつくったキーパーソンが井上毅である。『明治憲法体制の確立』(東京大学出版会、1971年)から、近年の『帝国と立憲』(筑摩書房、2017年)、『近代日本の構造』(講談社現代新書、2018年)まで日本の近代を問い続けてきた著者が井上毅に迫る。

「成功」した革命

明治維新は世界史的に見ても稀有な「成功した革命」だったと言える。250年あまり続いた幕府を倒し、さらにそれを支えていた300前後の藩も廃止し、さらには支配階級だった武士の特権をすべて奪ったのだから、それが「革命」だったことは疑いない。

日本近代史研究において明治維新が「革命」と呼ばれてこなかったのは、それが「王政復古」によって達成されたためであるが、内容的には立派な政治革命であり、社会革命だったのである。

他方、それが「成功」した革命だったという理由は、変革者がそのまま新秩序の制定者になったからである。こういう例も世界史のなかであまりなかったと思われる。

しかし、このように革命性と継続性を特徴とする明治維新においても、指導者のなかでの「主役」は、革命期、中央集権政府の建設期、安定的な政治秩序の確立期によって変化していった。革命期の主役が西郷隆盛、中央集権政府の建設期が大久保利通、秩序確立期が伊藤博文によって代表されることは、戊辰戦争、殖産興業、憲法制定を想起すれば明らかであろう。

第3期の明治憲法制定期の立役者は、たしかに伊藤博文である。しかし、明治14年の政変(1881年)で、イギリスモデルの憲法の導入を唱える参議大隈重信を追放して憲法制定の任を担った時の伊藤に、代わって導入するドイツモデルの憲法について深い理解があったわけではない。だからこそ伊藤は、翌明治15年3月から1年半近く、ドイツとオーストリアで、ドイツ憲法の調査研究に専念したのである。

では誰が、イギリスモデルの憲法ではなくドイツモデルの憲法の導入を唱えたのであろうか。太政官大書記官の井上毅(いのうえこわし)である。

井上毅(国立国会図書館蔵)

大隈のイギリスモデル憲法案

イギリスモデルの憲法の制定と議会の開設を急ぐように参議大隈重信が天皇に「密奏」したのは明治14年3月であるが、当初この上奏文を読めたのは、太政大臣と左右両大臣だけである。三大臣以外の政府関係者のなかでは、井上毅が最初である。右大臣の岩倉具視から井上が大隈の上奏文を見せられたのは6月10日前後のことであり、大隈と並ぶ有力参議だった伊藤博文がそれを読んだのはその2週間以上後の6月27日である。憲法問題に関しては岩倉は井上毅を一番信頼していたのである。

はじめて大隈の上奏文を見せられた時から、井上はイギリスモデルに対抗してドイツモデルの憲法の導入を考えていた。6月14日に岩倉に送った手紙のなかで、井上はつぎのように論じている(読みやすいように現代文に近づけてある。〔 〕内は筆者注)。

「先日秘書〔大隈上奏文〕内見賜わり候後、潜心熟考いたし候に、欧州各国、殊に独乙〔ドイツ〕国のごときは、決して英国のごとき十分に権力を議院に与え、立法の権のみならず併て行政の実権をも付与するに至らず。彼れ秘書〔大隈上奏文〕のごときは、その主義全く英国に依り改革せんとするものにして、一蹶〔いっけつ〕して欧州各国の上に凌駕せんと欲す。この事、実に容易ならざる儀と存候(下略)」(『井上毅伝・史料篇』第4巻、338ページ)

井上の言うとおり、明治政府内の保守派にとっては事態は「実に容易ならざる」ものであった。大隈は単に早期の憲法制定と議会の開設を上奏しただけではなく、それが天皇に裁可された時の憲法草案も準備していたからである。